SSブログ

仏に成らないと「無愛・無疑」にならない。(ご法話) [法話]



2022年7月16日の、「あさまいり」のご法話です。

「無愛」は現代ふうの「愛がない!」という意味ではなく、「貪愛」(とんない):「むさぼりの心」がないという意味です。
「無疑」のほうはフツーに「疑いがない」ということです。

あさのおつとめで「お正信偈」をいただいて、そのあとで日替わりでいただく「ご和讃」が6首あります。その中からひとつ取り上げて、解説しつつご法話をしています。今回はこのご和讃です。

「無上上は真解脱
  真解脱は如来なり
  真解脱にいたりてぞ
  無愛無疑とはあらはるる」

無上上は「上の上がない」ということで「最上のさらに上」みたいな意味です。
真解脱は、解脱は「さとり」でそもそも真実なのに、それにさらに「真」をつけて「真の真実」みたいな意味になっています。
両方とも初めから「この上ないもの」という意味の言葉に、さらにその上に強調表現をつけて、本当にものすごいんだよ!! という思いをこめているようです。

この「無上上」と「真解脱」という無上上の表現によって強調されるのは、阿弥陀如来という仏さまのさとりとすくいのすごさです。

そのような仏さまになって初めて「無愛・無疑」になるのです。

だからわたしが「貪愛がない」とか「疑いがない」という状態に、生身の今なるなんてことは、もう、ちゃんちゃらおかしいということになります。

そのように味合わせていただきました。
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:恋愛・結婚

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。