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五島勉が亡くなられた。 [日記]

大ベストセラー作家の五島勉さんが亡くなれたそうです。

「ノストラダムスの大予言」の著者、五島勉さんが死去
2020年7月21日 22時31分
https://www.asahi.com/articles/ASN7P7FD3N7PUTFL00Q.html
「 五島勉さん(ごとう・べん=作家、本名後藤力〈ごとう・つとむ〉)が6月16日、誤嚥(ごえん)性肺炎で死去した。90歳だった。葬儀は近親者で営んだ。
 1973年に刊行した「ノストラダムスの大予言―迫りくる1999年7の月、人類滅亡の日」は、16世紀のフランスの医師・占星術師、ノストラダムスの予言集を解釈したもので、ベストセラーになった。」

この人には一言で言うと「ひどいめにあった」。
小学生の時にこの人の書いた『ノストラダムスの大予言』という本を「読んだ」とも言えない読み方をして「ハマった」とも言えないハマり方をした。つまり、本をぜんぶ読んだわけではないし書いてある内容をぜんぶ理解したわけでもないのに、そこに書かれている「あること」を真に受けて信じ込んだのだ。端的に言うと「1999年の7月に人類は滅ぶ」ということをそのまま信じてしまった。
年齢で計算すると27歳11ヵ月で自分は死ぬんだと思った。
フランスのなんかとても偉い人が「予言」をしている。その予言は難解だがきちんと解釈するときちんと予言しているし未来を言い当てている。過去にも何個も的中しているのは言うまでもない。その予言の中に、「1999年の7月に人類は滅ぶ」という内容が記されている。その本にはそうあって、そのことを信じ込んだ。
「阿弥陀さまが救う」と言われてもぜんぜん信じられない自分をのちのち発見していくわたしなんだけどそのときはその「滅ぶ」という内容を信じてしまった。信じることは難しいけれど実はとっても簡単。わたしは変なものを信じ込む人なんだなあと思う。
死の恐怖をわたしが持て余すようになったのはその時からだったと思う。他には説明がつかない。そしてその頃のサブカルには今思えば「予言」とか「超能力」とか「UFO」とか「幽霊」とか「前世」とか「来世」とか「異次元」とか「妖怪」とかのオカルトが溢れていた。そして世界は冷戦のまっただ中で核戦争はすぐそこにある危機として常に語られていたし映画の『ザデイアフター』や『風が吹くとき』やNHK特集の『核戦争後の地球』などがその信憑性を高めていた。
とにかくわたしが「1999年7月の人類滅亡」という予言から解放されたのはだいぶ経ってからだったと思う。大学生の頃にはさすがに信じてはいなかったんじゃないだろうか、それ以外に大事なこと気にすべきことがいっぱいあったから。でもたしか中学生の頃は「滅んじゃうんだ。困ったな」とどこかで思い続けていたのではないだろうか。正直よくわからなくなってしまっているが影響力は甚大だった。
『風の谷のナウシカ』も解釈の仕方によっては「核戦争後の地球」を扱っているように読めないこともない。青き衣の者の原型となっている巨神兵と腐海は核戦争をモチーフとしているように読める。実際にオウム真理教では「最終戦争」後の地球を舞台にしているからと、ナウシカを推薦図書に指定していたと聞く。「聞く」というのは実際に聞いたことがあるからだが本当に指定していたのかどうかは不明。
最初に出遇ったオカルトのひとつ、ノストラダムスの大予言。
でもこじらせておかしくなった経験があったから変なショートショートも書けた。
なんまんだぶ。なんまんだぶ。なんまんだぶ。

石田智秀『最後の一人』(SFマガジン、投稿)
https://chishu.web.fc2.com/sousaku/sf.html
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テレホン法話。 [法話]

浄土真宗本願寺派・北海道教区十勝組、ならびに、浄土真宗本願寺派本願寺・帯広別院で、共同でずうーっとやっているテレホン法話があります。その 2020年7月16日~31日 を担当しました。

電話 0155-42-4446
よろしければお聞きください。
以下、その原稿です。

 浄土真宗本願寺派、北海道教区十勝組・本願寺帯広別院、テレホン法話に、ようこそ。

 さて。親鸞さまの言葉を紹介してくださっている『歎異抄』という書物の、第八条には、親鸞さまが、「念仏は、称える人にとっては、行でも善でもない」と仰った、とあります。

 行ではないというのは、行は「おこない」という字を書きますが、「おこないではない」ということではなく、もちろん「おこない」ではあるけれど、それによって何か結果が生み出されるタイプの、仏道修「行」のようなものでは、ない、ということです。

 そして、「行でも善でもない」というときの「善」というのは、善し悪しの「よし、」善を積む、善行を積んでいくという意味合いで語られる、そういうものでは、ないということです。

 ですから、お念仏を、わたしが称える場合は、わたしにとって、念仏は行でも善でもない、つまり「なんまんだぶ、なんまんだぶ」と称えるのは、何か結果が生み出されるタイプの、仏道修行、「行」ではないし、積み上げられていくタイプの善、でもない、ということです。

 聞くだけだと伝わりにくいでしょうか。

 つまり、親鸞さまが仰りたいのは、わたしが「なんまんだぶ、なんまんだぶ」ってとなえるのは、わたしが称えている、そのまんまが、まさに、阿弥陀さまのはたらきの中にある出来事であって、わたしの行いや、善をめざすような思いを、完全に超越しているということなんです。

 つまり、わたしがなんまんだぶをとなえているということは、わたしは阿弥陀さまに救われるということです。

 大事なことなので二度言います。つまり、わたしがなんまんだぶをとなえているということは、わたしは阿弥陀さまに救われるということです。

 あなたもわたしも、わたしやあなたが頑張るから阿弥陀さまに救われるのではなく、わたしの行いや、わたしが善だと考える物事に一切、何にも関係なく、「あなたのことは、南無阿弥陀仏を届けて、阿弥陀仏が救います。」ということなんです。

 阿弥陀さまが整えて、わたしのところに今こうやって届いている「なんまんだぶ!」、南無阿弥陀仏が、救いそのものです。それを、仏道修行のように「行」じたり、「善」として積み上げたりする必要はありません。ただ、阿弥陀さまの仰せにしたがって南無阿弥陀仏と言わせてもらうだけです。

 疑っても良いんです。ただ、その疑いには何の意味も効果もありません。南無阿弥陀仏が届いているという事実の前には何事もかすんでしまいます。

 わたしがなんまんだぶをとなえているということは、わたしは阿弥陀さまに救われるということです。

 なんまんだぶ、なんまんだぶ。

 担当は、十勝組、音更の妙法寺、石田智秀でした。
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