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「やさしさ」? [時事ネタ系]

以前、本願寺派の「基幹運動」が「実践運動」に変わる直前くらいに、とある先輩がモソモソっと語ってくれた内容の中に、

「差別問題について学びはじめて蒙を啓かれた人が、差別の問題をまだわかってない人に対して、〈なんでわからないんだ!〉って言って怒ったらだめなんだよ。だって、その人はなぜその問題がわかったのかっていうと、自分でわかったわけじゃなくて、わかってなかったその人に、誰かが教えてくれたからなんだから。そのときに怒って教えられたのか? そんなことはない。今まで知らなかったその人に誰かがその問題を怒らずに伝えてくれたんだから、その人も別の人に対して、怒らずに、頭ごなしにならずに伝えなければならないんだよ。学び初めて理解したオレの方が学んでもいなくて理解もしてないお前らよりエラいんだよ、なんてことはないんだよ。」
みたいなのがあった。
うわあすみませんわたしそういうことしまくってましたと思った。
(婉曲表現だったのかな)
 
いま本願寺派の中で二極分化されるかのような勢いでかなりモニャモニャもめてるんだけど、分化した二曲のどっちからどっちの立場に対して何かを言うのでも、頭ごなしとか、怒りまくって「なんでわからないんだ!」みたいに言うのは、やめた方が良いなと思った。

信心の大事なところとか、二種深信の難しいところとか、機法一体の機法と二種深信の機法とは違うとか、そういうのはわたしいきなりわかったわけじゃないもの。わからなかったわたしに対して誰かが教えてくれて、それでわかったところが多い。(わかるものではないということが理解できたということも含む。)

ということなので(?)、対立しているんなら「なんでわからないんだ!」って切り捨てて「自分で努力してオレんところまで上がってこいやあ!オレは何もしてやらんけどな!」ってすごむのではなく、「オレもそうだった!ああそうだったんだよ!先輩が教えてくれたんだよ!よよよ」って、対立しない方法を探した方が良いと思う。
 
ブチ切れて一方的に言い捨てたり切り捨てたりするのは恐らく自分が絶対的に正しいからなんだと思う。でも「絶対的に正しい」というのは単なる思い込みだから(「絶対」という言葉は日常で用いられる場合は1つの強調語です)、やめたほうがいい。

「切り捨てる」のではなくたしか「切り結ぶ」という言葉がある。相手が間違っていると思っても切り捨てず、その間違いも含めて自分の主張や立場からの世界観の中に取り込んでしまうということだと思う。(違うのかな?)それが「捨てる」ではなく「結ぶ」ということなんだと思う。「えらびすてる」という言葉もあるけどその格好良さは法然さまにまかせておいて、わたしたちは切り結んでいけばいいんでないか。

「あんたは言い方がわるい」と言いまくられてる立場からは、以上です。
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紛糾、総長交代 浄土真宗本願寺派 [時事ネタ系]

蓮如作「領解文」の現代版巡り紛糾、総長交代 浄土真宗本願寺派
毎日新聞
https://mainichi.jp/articles/20230601/k00/00m/040/045000c
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 浄土真宗本願寺派(本山・西本願寺、京都市下京区)の実務トップである総長が31日、交代した。過去最長となる8年8カ月にわたり、連続して総長を務めた石上智康(いわがみちこう)氏(86)に続き、日本最大の仏教教団の宗務を率いることになったのは、石上氏の片腕となる「筆頭総務」だった池田行信氏(70)。門信徒が高齢化するなか、現代の若い世代にも浄土真宗の教えを伝えたいと1月に制定した文書を巡り、両氏ら執行部(総局)は、僧侶・門信徒から批判や疑問をぶつけられてきた。それがトップからナンバー2への「委譲」となり、異例の混乱が収束するか不透明だ。【南陽子】

石上前総長退任あいさつ、異例の30分
 石上氏の辞任に伴う臨時宗会で5月30日、登壇した同氏の退任あいさつは、異例の30分に及んだ。「ご心配をお掛けしておりますので」と前置きして述べたのは、1月16日に宗主の大谷光淳門主(45)から発布された、信仰の要点を分かりやすくつづった「新しい『領解文(りょうげもん)』(浄土真宗のみ教え)」の制定をめぐる「主要な事実」。発布に至る手続きの正当性を事細かに説明し、同文書の取り下げを求めている「勧学・司教 有志の会」を名指しで批判。「『み教えの肝要が広く、また次の世代に確実に伝わる』ようにとのご門主のお心にそうべく、1日も早く宗門の秩序が回復されるよう切に願う」と強調した。

最高位学識僧「勧学」ら、総局と対立
 石上氏が対決姿勢を鮮明にした「勧学・司教 有志の会」は23日、西本願寺近くのホテルで記者会見を開いた。勧学とは、教義に精通した同派最高位の学識僧。同会には深川宣暢代表(70)=龍谷大名誉教授=をはじめ、4人の勧学と、勧学に次ぐ司教15人が名を連ね、3月以降、新しい「領解文」について「教えの誤解と混乱を招く」と異議を唱える声明を発表してきた。

 現在、勧学と司教は計33人いる。深川勧学が「信仰上問題がある」とも述べた会見は、いわば教学のけん引者の過半数が公然と総局を非難したことになり、会が動画配信サイト「ユーチューブ」で中継した会見映像は、31日までに約1万9000回視聴された。

門主の新しい「領解文」唱和に反発
 真宗門徒が心得るべき信仰上の要点である領解文は、中興の祖・蓮如(1415~99年)の作とされ、宗祖・親鸞(1173~1262年)の著作などの「聖教(しょうぎょう)」に準ずると位置づけられている。長年、得度式や宗祖の遺徳をしのぶ「報恩講」などの法要で唱和されているが、分かりやすい“現代版”を定めようと、光淳門主の消息(手紙)という形で発布。3~5月の宗祖誕生850年などの慶讃(きょうさん)法要では、法要に続いて参拝者一斉の唱和を呼びかけた。

 しかし、唱和などを推し進める総局に対し「強行だ」との反発が広がった。宗派は新しい領解文のポスターを全国1万の寺院に配布したものの、受け取りを拒否して送り返したり、反対意見の文書を送ってきた寺院もあったという。

 定員18人の勧学のうち、5人は門主の諮問に応じて答申したり、門主が出す消息(手紙)に同意したりする「勧学寮」を構成する。有志の会は、勧学寮の同意を得る手続きに瑕疵(かし)があったとも主張。一方、30日のあいさつで石上氏は、勧学寮の現在の寮頭=手続き当時の寮頭は3月31日に辞任=と面会し、勧学寮が同意し、同意書に別添の文案そのままで発布されたことを確認したとし、双方の主張は平行線をたどる。

池田新総長は「ご門主の心に添う」
 新総長は、光淳門主が指名した候補2人に対し、31日に宗会議員の投票が行われ、池田氏が過半数を獲得した(投票総数74票のうち47票)。宗派内の混乱に今後はどう対応するのか。新総長に就任した池田氏は、新しい領解文について「ご門主の心に添うよう、前総局がやってきたことを継承するのが、指名を受けた者の使命。取り下げの手続きは総局にはできない」と記者会見で述べた。

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わが宗門のいろいろが一般の新聞で紹介されました。
とても良いことです。

「領解文」というのは、記事の見出しにもあるように「蓮如作」といわれている文章です。(実際には蓮如さまの作ではなさそうです。)本願寺が東西に分かれる前に出来た文章なので東西本願寺ともけっこう大事にしている文章です。本願寺派(東西の西)では「得度」という僧侶になる研修・儀式のいちばん最後にこの「領解文」を丸暗記した上でご門主の前で得度者全員で絶叫するという謎のような儀式があります。正直わたしそのときはとてもイヤでした。しかしその後いろいろなことがあってそこそこまるくなる中であんまり気にならなくなりました。得度のとき以外ではあんまり読まなくていい文章です。が、ご法話の会の終わった後に読む場合があります。わたしが得度以外で読むのはほぼご法話の後でした。

内容をよくよく吟味すると、個人的には何んか変な感じがする部分があるのも事実でした。しかしながら得度は儀式ですから、なるほど、うちの浄土真宗というのはあんまり宗教じみて感じられないけれど、こういう儀式があるというのはやっぱり宗教だったんだなあ、などと思ったりもしています。

その領解文が今回あたらしくなったようです。理由は、ご門主がおっしゃることを総合すると、若い人、今まで真宗の教えにご縁のなかった方々に真宗の教えがひろまっていくことを願って戦略的なことを考えたうえでの変更と言うことになるようです。

が、いまいち「それ」がよくわからないとわたしには思えていて、とてもコマッテイマス。

違和感とかオカシイだろとかいろいろあるんですが、つらつら箇条書きしますと、

・若い人・知らない人に伝えるなら別に領解文でなくて良いんでないかなあ…… 新しく何かまったく別のものを作文して、それで伝えた方が早いんでないかなあ…… ?
・ってか、この文章の内容って、真宗じゃないですよね? あきらかに従来の言い方はもちろん、内容からもかなり逸脱してるけど、……従来の言い方が通じないから何とかしようと思うのはわかる気がするけど、だからって内容まで変えて「これが新しいqあswでfrtgyふjきおって言っても、かえって誤解を招くんじゃないかなあ……
・なんか、制定の手続き的に「問題はない」と総局(実質的に本願寺派では今いちばんの権威)は言ってるけれど、たしかに手続きの報告に関しては問題がないけれど、手続きの内容と実際の「やりとり」をしっかり詳細に分析すると手続き的な「問題はない」というべきではなく、手続きに「問題はない」と言えるように無理矢理に手続きの周囲を別の問題ありありのやり方でかためているので、かえってかなり深刻に問題なんじゃないかなあ……
・何か問題が起こったときに「手続き的に問題はない」と言い張られる場合って実際にはかなり問題があるってことと同義だと、ここ数十年の日本の政治を見ているといやでもわかってくるんです。同じような感じに、どうしても思えてきてしまうんだよなあ……

みたいな感じです。

はっきり言えばこういうのはスルーすれば良いだけなんだけど、今回ちょっと問題なのは、わたしには問題アリアリに見えてちょっとかなりしんどいその一連の文章をもってきて「全員で100%唱和しよう」って言って来てるんです。

えっ。本気ですか……?

わたし、政府関係のもろもろで「黙祷」って言われてもこっそり「なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ、」って言い続けてるんです。ここだけの話ですが。そしてそれを政府のもろもろは容認してくれているんですよね。「100%黙祷しようぜ!100%!」とかわけわからないことは言わないでスルーしてくます、というかわたしがスルーすることをスルーしてくれている。君が代もそう。

そういう配慮っていうのは必要だと思うんです、権威とか権力とか持った人がやる場合って。
なのにそういう配慮をしないっていうのは、ちょっとかなり深刻に問題かなって思います。

内容的な問題というのは、……ぐぐればかなりいっぱい出て来ますが、あえてあらためてお伝えするならば、こういうことかなあ……

・浄土真宗の上で何か「良いことをしよう!」と思ったときは、その人のやりたいようにやれば良いんだけど(しちゃ駄目という理由はどこにもない)、その「良いこと」をする理由を、自分の宗教的な救いの条件をみたすためのモノと位置づけてやるのはナンセンスだ、という大前提があるのに、そこをかなり誤解させる文章になっている。

・浄土真宗の上で、浄土真宗と関わりを持つことによって自分の人間性なり何なりが改善した!と思うことが、ある場合はあるんだけど、その「改善した!」と自分が思ったことを真に受けて「自分は改善したんだよ!」と言うのは、真宗を理解していないということになるんだけど、そしてそれは真宗の共通認識なんだけど、それをうまく誤解させるような文章になっている。

この2点に違和感です。

最初のはわかると思います。二つめがよくわからないかもしれないので説明をこころみます。

真宗では、誤解を恐れつつ言い切ってしまうと、自分の救いの理由を、自分のわけのわからないほどの救われなさ、馬鹿さ、みたいなところに求めます。どんだけ改善しても改善しても、ぜったいに最善にはならない、のみならず、少し「改善した」と思ってもそれは仏の真実性の前では誤差の範囲内の出来事であり問題にならない、だから「わたし改善した!」と思うところにこそ自分のどうしようもなさがある、という考え方をします。

もちろん社会的に何か良いことをしたとか、あの人はバランスの取れた人格者だと言われまくるようになったとか、そういう場合もあるだろうと思います。そして「たしかにわたしは改善している」と思うこともあると思います。しかしながら、その改善は「世間の相対的な基準からみれば」ということだし、「あの時点のわたしよりは」という相対的なものです。対外的なものと言えるかも知れません。しかし宗教的な自覚という面からは「少しずつよくなる」とか「少しずつ悪いところから遠ざる」みたいに言える水準では絶対にないし、「いいや、わたしなんかまだまだです」ということでもない。一切なにも変わっていないわたしがヨロイやパワードスーツをまとって強くなっている感じ、みたいな考え方です。仏と人類との善悪における断絶が、仏がわたしの救いを第一にしている理由なのです。

だから「必ず改善する!」みたいに言ったら、それは真宗的には嘘なんです。ヨロイや武器を手に入れて強くなった、しかしそれらをはいだら元々の強くないわたしがいる。また、言ってみれば、改善されるたんびに自分の現状が変わるから、改善されていない状態に、相対的な(?)ゼロに戻る、みたいな感じでもあると思います。そういうのが真宗の善悪感の根幹みたいな部分にある。だから「真宗のヨロコビをいただいたわたしはちょっとずつだけど良くなります」って言ったら、真宗の前提が共有できていないことになる。外部から見て「あの人真宗になってちょっと良い方に変わったね」と言われることがあったのかもしれないけれどそれを真に受けて真宗的にちょっと良くなってると思い込むのはナンセンス。

なんまんだぶ。ちょっと文章がおかしくなり始めている気がするので、今日はここまでにします。推敲も明日に回したいと思います。(と書いていたとおり、ちょっと推敲しました。あんまり変わらない。)
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おすすめのテレビ番組 [時事ネタ系]

NHKの『こころの時代〜宗教・人生〜』
に知り合いが出ました。かなり興味深い内容でした。
超おすすめなので紹介いたします。

「生き延びるための物語 哲学研究者・小松原織香」
 初回放送日: 2023年1月29日 配信中 2月4日(土)午後1:00 ほか
https://www.nhk.jp/p/ts/X83KJR6973/episode/te/R7KKJLX2M7/
    ↑
リンク先に番組の説明があります。

それを気にせずわたしなりに番組の内容を要約すると「修復的司法の研究者が自分を棚上げにしない方法を模索し完成させていこうとするひとつの物語」みたいな感じになるかも? と思いますが、番組の中でご本人もおっしゃるように、何か1つの「ワク」にはめて理解しようとするのはあんまり有益なやり方じゃないかも? とも思います。人間って多層的で多面的だから。

番組ができるきっかけとなった本の内容はものすごく重くてもうものすごいんですが、そしてプロのナレーションと朗読もそりゃすごいんですが、ひょっこり出てくる感じの著者があっけらかんとしてて、「?」「?」となるかもしれません。でも、世の中ってそういうものです。(乱暴)

本の帯に「わたしが待ってた一冊!」みたいにあるのと同様、「こういう番組を求めていた!」という人もけっこうあるんじゃないだろうか。本人が見て笑ったというのはかなりよい仕上がりになってるってことなんだと思います。

以下、リンク先の説明文のコピペです。

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哲学研究者・小松原織香さん。戦争や犯罪などが起きた“その後”を考え、エッセイ「当事者は嘘をつく」で生き延びる物語をつづった。苦難の後、人はどう生きるのか―。

哲学研究者・小松原織香さん。戦争や犯罪などが起きたその後に、人々が何を考えてきたか、研究している。昨年、「当事者は嘘をつく」というタイトルの自身に関するエッセイを書いた。19歳のときに遭った性暴力の被害、そして研究者となった個人の物語。葛藤を抱えつつ、生き延びてきた半生とは。苦難の後、人はどう生きることができるのか。当時、小松原さんの研究拠点だったベルギーを訪ね、インタビューを行った。
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以上。よろしくお願いします。

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終わっていない・解決していない やば [時事ネタ系]

パワハラは終わっていなかった!
これは統一教会ではなく…………

っていうか、最初に「今日は何をどのように話すつもりでいるか」ということを語ってくださるのは、聞いていて滅茶苦茶に安心できるもんなんですね。これからもやっていきたいと思う。

長谷顕文師「パワーハラスメントという差別」
https://youtu.be/yApA5kxoses
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「浄土真宗の救いのよろこび」について [時事ネタ系]

先日の「ポエム」関連のつづきです。

語呂が良くないものは唱和に向かないと思います。
語呂が良くなくても、歌になっていれば唱和できる場合もあります。

お寺では法話の会のとき「聴聞の心得」というのを唱和します。

聴聞の心得
ひとつ このたびのご縁は はつごとと思うべし
ひとつ このたびのご縁は われ一人のためと思うべし
ひとつ このたびのご縁は 今生最後と思うべし

内容もよいし、語呂も大変よいと思います。

居酒屋の壁にたまにポエムが貼られていることがあります。
じっくり読んでみるんですが、内容は「前向き」「前のめり」である雰囲気はあるものの、実際には何が言いたいのかよくわからなかったりするし、何より語呂があんまりよくないと思うことがほとんどです。「でもこれひょっとするとラップで、刻む?って言うんだっけ、アレをやると良くなるのかも知れない、ただ韻を踏んでる気配もないな……」と思ったりします。

わたしは『拝読 浄土真宗の み教え』の旧版、黒いのに載ってた「浄土真宗の救いのよろこび」が、内容も好きですし、語呂の良さも好きですし、唱和に適しているとつねづね思っています。と言いながら実際にはあんまり唱和してません。「唱和」というのはあんまり時代に即してないのかもしれません。でも歌手のライブでは「歌って!」と言われたらガンガン唱和しますね。わたしも『ポケットを空にして』は坂本真綾のライブで何度も唱和したものです。そしてきっとこれからも唱和することでしょう。この「救いのよろこび」も唱和する機会があればやっていこうかな。

「浄土真宗の救いのよろこび」

阿弥陀如来の本願は
 かならず救うまかせよと
 南無阿弥陀仏のみ名となり
 たえず私によびかけます

このよび声を聞きひらき
 如来の救いにまかすとき
 永遠に消えない灯火が
 私の心にともります

如来の大悲に生かされて
 御恩報謝のよろこびに
 南無阿弥陀仏を称えつつ
 真実の道を歩みます

この世の縁の尽きるとき
 如来の浄土に生まれては
 さとりの智慧をいただいて
 あらゆるいのちを救います

宗祖親鸞聖人が
 如来の真実を示された
 浄土真宗のみ教えを
 共によろこび広めます

「永遠」は「とわ」、「真実」は「まこと」など、ルビがあると読みやすいですね。

浄土真宗本願寺派 750回大遠忌のときの説明にはこのようにあります。
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  「浄土真宗の救いのよろこび」は、親鸞聖人が説かれた阿弥陀如来の本願のみ教えの要を、自らうけとめ、そのよろこびを述べていくものです。
 そこには、短いながらも浄土真宗のみ教えの要である、阿弥陀如来の本願、南無阿弥陀仏の名号、信心、称名報恩、往生浄土、そして親鸞聖人のみ教えを広めていく伝道の心が織り込まれています。くりかえし自ら声に出して読むたびに、み教えに思いを傾け、味わいを深めることができるでしょう。
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『拝読 浄土真宗のみ教え』の活用(本願寺派公式サイト内)
https://www.hongwanji.or.jp/daionki/shinkou-soumon/shumon03/shumon_03_17.html
より

わたしたち「浄土真宗」の教団は、親鸞さまの導きに感謝しつつ、阿弥陀仏の救いに感謝しまくっていく教団だと思います。そのときに「よりどころ」というか、参照したり読んだりするのは、多くが浄土三部経や親鸞さまの述作だったりすると思います。そして親鸞さまという方は、びっくりするくらい言語感覚が豊かで、(こんな言い方失礼なんだけど)散文も詩歌も韻文もめちゃくちゃスゴイわけです。毎朝いただくお正信偈はやっぱりすごいし、ご和讃も何百首あって、繰り読みしてても、こりゃものすごいなと思わせてもらうばっかりです。内容も語呂も、語感も韻も、なんせすごいわけです。

だからわたしたちは、もっと、ポエムじゃないものを唱和すべきなんじゃないかと思うのです。親鸞さまほどのクオリティのものはたぶん無理だと思いますが、それでもがんばって、せめて57調くらいは挑戦してみたら良いんじゃないかと思います。ラップのように韻をふみまくるのも良いと思います。とにかく語呂ってすごく大事だと思うんですよ。

居酒屋のポエムがそれでも尊いのは意思表明だからだと思います。わたしの感覚とはちょっと違うけど、それでも「伝えたいことがあるから!」張り出されている。おそらく「前向き」であることがとても大事だという、そういうメッセージは感じられます。でも、「唱和して!!」といわれたらちょっと困ります。ポエム側もべつに唱和することを求めては来ません。

なお、「浄土真宗の救いのよろこび」の本文は
こちらのサイトからコピーアンドペーストさせていただきました。
廣國山 稱名寺 さま
http://www.smj.or.jp/posts/piece20.html
ルビのある画像バージョンも置いてくださっています。本当にありがとうございます。どうぞご覧になってください。熱い思いが感じられます。そして。……うーん。考えさせられます。「読書百遍意自ずから通ずる」とも言いますよね。もちろんそれだけではなく、話したり聞いたりしていかなければなりませんが、通じないからといって何もせずばっさりカットするのはなあ。

なんまんだぶ。

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別れは突然。 [時事ネタ系]

今日は寂しい・悲しいことが2つ重なりました。

1.
1つは、大学の時に所属していたサークルが解散したことです。今年の3月31日付けでした。

サークルながらわたしが所属していたころは「準公認」みたいな肩書きがついてました。名称も「早稲田大学教育学部国語国文学会」。通っていたのは「早稲田大学教育学部国語国文学科」。公認サークルは部室が確保されるのだけど、非公認サークルは部室の確保が最初の課題。入っていたのは「8号館」の地下。ちかぢか解体されるので部室が危ない!と言われ続けているうちに卒業してしまった。その後8号館は本当に解体・改築されたのだけど、そのときに何かうまいことが起きて、公認サークルっぽくなったか本当になったかして、部室がどこかに確保されることになり、その後の存続も安泰となっていたらしい。
のだけれど、2020年から新型コロナウイルス感染症が蔓延して、その影響の下で解散となるようです。

サークルでは「ゼミ」のようなことをしてました。というかほぼゼミです。各部会に分かれ、古代~現代の国文学作品を担当者が指定、全員が読んで参加、担当者が切ったレジュメにそって話し合う。児童文学部会と近現代詩部会、国語学部会、演劇を觀る会、もありました。
こじらせぎみの文学好きにはたまらないサークルでした。
対面でやるのが原則というかそれ以外ちょっと難しい感じなので、リモートが原則になるとちょっと存続は難しいかなあと思いました。今までそれでもがんばっていた現役の方々にはありがとうというかなんというか、頑張ってたんだなあという感想です。

春には新歓合宿、夏には本合宿があり、合宿と追い出しコンパでは校歌と人生劇場を歌うのが「伝統」。伝統って言っても入ったころには再建されてたかだか20年でした。でも校歌が歌えて良かったです。
何組か結婚してる人たちもいます。わたしは片思い以外には何もなく終了。恋とは関係なくいろいろかなり頻繁に思い出すことが多いサークル。

それが解散する、というか3月31日づけで解散したそうです。さみしい。

2.
もう一つは、藤丸の閉店が決まったことです。

藤丸(ふじまる)は帯広にある老舗のデパートです。子どもの頃からあります。というか1900年創業だそうなので1971年生まれのわたしが子どもの頃じゃなくはるかそれ以前からあります。
子どもの頃に現在地の現在の建物になりました。「3月1日、新しく」というコピーがTVCMで流れていた。バブルのずっと前。100均なんかなかったころ。映画は入れ替えじゃなく同時上映があることが多かった。外の見えるエレベータが十勝では初めてついた。
ごくごく近くにヨーカドーがあって、スーパーとデパートが刺激し合っていたんだと思う、どっちもにぎわって繁盛していた(んだと思う)のが、バブル前。

なんか良いものをおみやげにするなら藤丸、という感じ。定価販売なので高いけどモノは良いものばかり。こどもがうまれて、お祝いをくださった方に送るお礼も藤丸でお願いした。こういう買い物は最初で最後かもと思っていたら閉店だからホントに最後になりそう。

北海道チーズフェアとか、各種物産展とか、ものすごく頑張っていたのにな。
ただ大学のころに帰省してきて、あまりの客の少なさに友だちと「藤丸大丈夫なの?」と挨拶がわりに言ったりしていた。あれから30年。よくもったと思う。すばらしい。

こどもの好きなひじきのふりかけは藤丸でしか買えないんだがなあ。
なぜかはわからないが「よいとまけ」がいつでも買えた。場所違うのに。

しかしここ何年か、「えっ?」と思うようなテナントが撤退していた。六花亭が撤退したのは本当にびっくりした。あのときも「藤丸大丈夫か?」と思った。たしかに六花亭本店と目と鼻の先だからあるのが不思議な気もしたけど、藤丸の六花亭にいく人に聞いたら「藤丸に用事があるときに六花亭行こうと思ったら地下にあって便利だから」という理由だった。なるほど、完結していたのだ。

とにかくさみしいです。道東唯一のデパートなのに。

別れは突然ですね。

https://news.yahoo.co.jp/articles/c2df3f05d05b06afaca2ecacdb079e4dc30cd48b
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言って良いこと、悪いこと、…… [時事ネタ系]

https://twitter.com/mi2_yes/status/1513793273655021568
Mi2 @mi2_yes
【ロシアを悪者にすることは簡単】東京大学の入学式で、祝辞を述べた映画監督の河瀬直美氏「ロシアという国を悪者にすることは簡単である。一方的な側からの意見に左右されて本質を見誤っていないか。自分たちの国がどこかの国を侵攻する可能性がある自覚をしておく必要がある」

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3月2日の日記でも紹介した『七仏通誡偈』
 「諸悪莫作 衆善奉行 自浄(調伏)其意 是諸仏教」
(悪いことをしない 良いことをする その心を浄める(やっつける) これが仏の教え)
に通じると思いました。自身の価値判断とその基準を絶えず疑うことを教えるのが仏教。「正義」は人の数だけあり、すべて正義ではないということ。
「こういうときにこういうことを言うべきではない」という意見が、なんかどうも多いみたいだけど、言って良いと思うよ。むしろ言った方が良いと思うよ。
会議の時とか、大体の人が「それは良いことだ!」「やろうやろう!」「みんなでもりあげよう!」みたいに言い出すとどうもそわそわしてしまい、「こ、こういう考え方もある……ヨ?」と言ってしまいがちなわたしです。「一枚岩」とか「一致団結」とかかなり苦手。

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「ロシア軍のウクライナ侵攻を非難し、戦争の早期終結を願う決議」 [時事ネタ系]

2022年3月4日、浄土真宗本願寺派の宗会(国会のようなもの。国会より成立は古い)で、戦争終結を願う決議がなされました。紹介いたします。

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本日(註:2022年3月4日)、浄土真宗本願寺派第320回定期宗会が終了しました。
その中で、「ロシア軍のウクライナ侵攻を非難し、戦争の早期終結を願う決議」が宗会議決されました。
提案理由は以下の通りです。
提案理由
教主釈尊は全ての命を慈しむ心を大切にされました。しかし、今それに反する現実が目の前で展開されています。釈尊の願いを受け継ぐ我々はこのウクライナの軍事侵攻を決して見過ごすことはできません。
 ご本山のまします京都市はウクライナの首都キエフと姉妹都市を提携を結んでいます。京都市庁舎には平和を願う多くの人々が献花をし、多くの募金を届けています。この戦争をやめさせるためには、日本の世論の喚起が大事です。言葉は決して無力ではありません。この世論の喚起において日本最大の宗教教団である我が宗門の平和を願う声は大きな役割を果たすでしょう。以上をもって提案の理由といたします。

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不審なメール [時事ネタ系]

「日頃よりETCカードをご利用いただき誠にありがとう御座います。めひとにおおていち
 ETCカードの有効期限についてご確認宜しくお願い致します。めひとにおおていち」

という文面のメールが来ました。
この後にはリンク先がよくわからないURLが示されています。

……「めひとにおおていち」とは、一体、何?
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「そだねー」関連。 [時事ネタ系]

今年の新語・流行語大賞が「そだねー」に決まったと昨日の報道で知りました。よくよく考えると自分とはあまり関係ない話なんだけど、でも「決まった」旨をフジのニュース速報?で知った時はなぜか「やった!」と、すごく嬉しく感じました。

「そだねー」はカーリングの中継から生まれた言葉です。わたし、カーリングはときどき見ます。中でも今年のオリンピックの時は、たしか、いろいろやらなきゃならないことがあったのに家族に隠れて……ではないけれど、でも多くの時は一人でひっそりと見てたような気がする。でも見ていて、見てられなくなって、しばらく別のことを真剣にやってカーリングのことをすっかり忘れて心が落ち着いた頃に「ハッ!」と思い出してTVを付けて再び心がふさがる、みたいな感じでした。ストーンはあんなにゆっくり動くのに、なんでこんなに心が締め付けられるの! ああ、ゆっくりだから心がついていけてそれで余計にふさがるのか! などと。

3位が決まった試合のその瞬間も、そんなわけで最初は見たけど途中が怖くて全然見てられなくて、でもやっぱり最後は見るのがファンというもんじゃないか、みたいに思って勇気をふりしぼって再びつけたから見られました。(隣の部屋で子どもが眠っているから音を切って見ていた。)

あのときはたしか、やっぱりちょっと劣勢で、でもファンというのはかなりやばいと思っても見てそしていろいろわかちあうのが筋だろうよ、みたいに思って見ていたところ、やっぱり劣勢のままで展開して、最後の最後もやっぱり劣勢で、ああ、そうだよ強いチームってのはがっちり勝ちにくるんだよ、ああ、キツいなあ、でも何とかならんかなあ、

と思って見ていたら、最終投のストーンがはじいたストーンがあり得ない……いやあり得るけれどイギリスの意図とかなり違う曲がり方をして、「あれっ? 取ったんじゃないのコレ?」と思ったら選手たちが握手・握手で、やっぱり終わった、でも日本の人たちはぜんぜん喜んでない。でも勝った……ん……だよな? と半信半疑だったけど、やっぱり勝っていた。そこであらためて「そうだった、カーリングって審判がいない敬意・敬意、良心に次ぐ良心のスポーツだから、相手がミスして自分が勝ってもそれを「ぎゃー!!」って喜ぶような品のないことはしないんだ。そうだ、そうだったんだ、だから冷静に握手してたんだ!」と、自分が応援してた人たちが勝ったこととカーリング本来のすごさの体感との両方がじわじわ来て泣くほど嬉しくなりました。

で、今年のその後の北海道では、いろんなことがカーリングがらみでありつづけたのです。
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こんなキャンディが北見界隈で発売されたりもしていた。9月に道の駅に行って発見、笑いながら購入。でもこれってかなりすごい。なんせLS北見(当時。今はロコ・ソラーレ)の誰にも似ていないのに誰かであることがわかる特殊な絵。素晴らしい。

そして、流行語大賞が決まる数日前にはこんな記事も道新に出てました。
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ポストに書かれた「オホーツクール」なる言葉もかなり寒いダジャレだけどこの記事も必要以上の駄洒落オチでもう、大学の時に大阪の友だちから「北海道のギャグは寒い」と言われたまんまだなあと思いました。でも良いじゃん。

「寒いよね。」「そだね-。」「もう冬だね。」「そだねー。」

なんか妙に暖かく感じられるではないか。不思議だ。

「カーリングは、恐らく世界で唯一の、オリンピックに出るような選手とまったくの初心者とが一緒に楽しめるスポーツなんですよ!」って、若手の僧侶研修会でカーリング体験をしたときに一緒にプレイしてくださった小笠原さんが、たしかおっしゃっていた。まったくその通りだった。そして、その前後に相次いで一緒にプレイすることができた本橋さんや敦賀さんも、わたしらのような純然たる初心者に懇切丁寧に手ほどきをしてくださるばかりではなく、その後のミニゲームでも本当に楽しそうにプレイしてくださったんですよ。彼らの言動のどこにも「初心者はこれだからハハハ」みたいな感じがまったくない。本当にカーリングが好きなんだこの人たち、自分の大好きなカーリングを誰かと一緒にやれる、そのことを本当に大事にしているんだ、何より「誰かと一緒にやれること」が大事なんだ、そしてこのプロフェッショナルな人たちは、たぶん恐らく、わたしらズブズブの初心者の動きからも勝手に何かを学んでしまっているんじゃないか、「天才は一生成長する」は本当だったんだ! みたいに思えました。

カーリング、体験プレイも面白かった。わたしは運動神経なさすぎて、どんなスポーツも、やるのよりも見るのが好きです。しかし中継を見るのがいちばんキツいのはこのカーリングです。じわじわ、じわじわ、心が痛くなる。……でもその分、自分が応援してる方が勝ったときに感じられるカタルシスみたいなのがひときわ強いのも、カーリングです……。

なんまんだぶ。
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