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伝道院(2005前期) ブログトップ
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2005年7月5日 [伝道院(2005前期)]

 閉講式でした。修了証をもらったり、部屋にあったご本尊を返したり、わたしは6月10日付けの巡讃・式嘆資格をもらったりしました。寮には掃除機を寄付することになりました。ダスキンモップが良いと思うんだけどなあ。

 記念輪袈裟をもらって、荷物をほとんど宅急便に出して、バスで帰りました。

 帰ってから蕎麦を食べに出て、そのままノートを持って小川珈琲で日記を書いていたら友だちから連絡があって、夜はそのまま麻雀をしたり飲んだりしました。伝道院の延長でした。何か上機嫌で「なか卯」に行ってすんごいいっぱい食べた気がします。

 ‥‥という感じで伝道院(前期)は終わりました。終わった直後なのでうまく整理出来てません。とりあえず言えるのは、とても貴重でとても濃い、なにものにも代え難い90日間だったということくらいです。いま非常に淋しい。

 さて。17日に安居が始まります。その後、京都の部屋から撤退します。本格的に引っ越し準備を開始します。本その他を段ボールに詰めたり、要らない服をのきなみ捨てたり、いろいろ忙しくなります。

 以上で、伝道院日記を一応終わります。


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2005年7月4日 [伝道院(2005前期)]

 午前中は「まとめ」の講義でした。全員が眠そうにフラフラしていたからでしょう、先生も考えられて、ひとりひとりにマイクを回して、反省というか今後この学びをどう活かしていくかを喋らせました。わたし何を言ったかなあ。10秒くらいって言われたけど30秒以上しゃべってしまった。

 午後からは一人ずつ個別面談がありました。

 順番が来て講堂に入ると専任講師が6人、事務方が2人、阿弥陀さまの前に机を並べて一列に座っていました。そこで つるし上げ 面接でした。

 「前半・後半の筆記試験と布教実演試験を総合的に判断した結果、修了と認定しました。しかし、布教実演の試験に関しましては、決して良い成績とは言えません。そこのところを先生方からお話していただきます」的な言葉の後で、いろいろな意見をいただきました。

 「修了」と言われて正直ほっとしました。35万円+食費まで親のお世話になって90日間過ごして、それで修了できなかったらちょっと淋しい。

 他にも、いろいろ質問に答えたり激励の言葉をもらったりしました。布教使になれるかどうかは今日はお伝えいただけませんでした。今週中くらいに可・不可を書いた封書が来るそうです。これがどうなるのかは本当によくわからない。

 「90日間、長かったですか、短かったですか?」
 「半ば頃までは長く感じました。今は、短かった気がします」

 などなど。

 夜は謝恩会でした。準備ちょこっと手伝いました。先生方が入場するときには生で蘭陵王が聞けてすごい幸せだった。料理もお酒も美味しかったし、先生方もひょっとすると楽しんでくれたかもしれないし、良い謝恩会だったと思います。もう終わりかぁ淋しいなぁと思っていたら女の子が一人びえーって泣(鳴?)き出して、それを見て妙に冷静になれてよかったです。別の所では酔っぱらった寮務さんが酔っぱらった受講生を泣かせていました。というかヨッパライはよくわからない場所で、よくわからない文脈で泣きます。

 いやはや。いつもは21:00門限なんだけど22:00門限になり、風呂は23:00までいけました。ちょっと羽根を伸ばした感じです。


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2005年7月3日 [伝道院(2005前期)]

 2005年7月3日 8:00更新分 ↓
 すみません。伝道院での追い込み、ならびに東西本願寺を結ぶ非戦平和共同行動、そして今日のシンポジウム等々で日記の優先順位がちょっと低くなっています。今日はこれからキャンパスプラザ京都の方へ行きます。今年の伝道院(前期)は7月5日に終わりますので、それ以降、予定として「どかん」と更新いたします。いましばらくお待ちください。それにしてもデスティニィは一体どういうことになっていくのかな。(デスティニィとツバサは何よりも優先順位が高いらしい)
 2005年7月3日 8:00更新分 ↑

 9:30からシンポジウムでした。とても興味深い話でした。

 昼ごはんをいただいてから伝道院の寮で荷物を整理しました。7月5日に日程がすべて終わるので引っ越しです。段ボールに本をいっぱい詰めたり服をいっぱい詰めたりしました。なかなか、思っていたより時間がかかりました。


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2005年7月2日 [伝道院(2005前期)]

 頭が少し重いなあと思いながら起き、近所のスーパの三階にとんかつを食べに行ってから、雨の中、左胸に「非戦」、背中に「ころさない ころされない ころさせない」と書いたTシャツを着て、二条駅まで歩いて、東西線に初めて乗って三条大橋下に向かいました。「東西本願寺を結ぶ非戦平和共同行動」参加のためです。駅まではものすごい大雨だったので足もとがぶしゃぶしゃに濡れました。三条京阪の駅からはそんなに降りませんでした。

 集合場所に着いたら、すでにもう100人くらい学生が集まっていました。おお、すごいじゃないか! と思ってよく観察したら、まったく別の団体でした。ちょっと離れたところに「南無阿弥陀仏」とか「兵戈無用」とかおなじみの言葉の旗を調整している方が一人だけいました。その方しかいない。「今日、デモ、あるんですよね?」「あります、やります。おいおい来ます」

 しばらく待っていたら、浴衣を着た女の子たちがゾクゾク集まってきて100人くらいになりました。これももちろん違う団体。うーん、本当に集まるのかな? と少し心配になってきたけれど、結局30人くらい集まりました。ハンドマイクで出発式みたいなのをして歩き出しました。

 コースは、三条大橋から三条を西進、河原町通りを南下、四条を東進、八坂神社の前で曲がって南へ。そしてお東の本廟みたいなところで解散しました。

 デモに参加して歩いたのって初めてです。プラカードを持つ手がすんごいしんどかったけど、良い経験になりました。いちばん前で横断幕を持っていた4人が布袍輪袈裟姿で、後はほぼ皆「非戦」系のTシャツでした。何をやってるデモなのかよくわからないらしく、河原町通りを行くひとたちの多くがこちらを注目してくれました。携帯を構えて撮る人も多かった。中国人の観光客を満載したバスから応援してもらったりもしました。「非戦」とか「平和」とかの言葉が読めたようです。

 その後、本願寺派と大谷派の交換会、というか飲み会がありました。わたしその会場に傘を置き忘れて来ました。そのうち取りに行かないといけません。でも置き忘れた傘が残っていたことってほとんどないので、ついでの時にします。


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2005年7月1日 [伝道院(2005前期)]

 午前中は「僧侶に望むこと」という内容のタイトルで講義を受けました。講師の先生、いろいろな話をされました。恐らくその主題は最後の方で先生ご自身が強調されていた「身近な人の〈不幸〉や、身近な人の〈死〉に直面したときわたしたちは言葉を、行動を、いろいろなものを失い、立ち止まってしまう。だがその〈不幸〉や〈死〉に何らかの意味づけを行えば、人はその死を乗り越えることが出来る」ということだったのではないかと思います。

 正しいんじゃないかと思います。

 でもひどく残念です。

 まず、必要っぽい例として引かれた実際の〈不幸〉は必要不可欠な例ではありませんでしたし、絶対的な不幸でもありませんでした。だからそうやって絶対的な不幸のように語らない方が良いんじゃなかろうか。また、その解決の仕方として先生が問題になさっていた「神が‥‥」ということは問題ではないと思いました。さらに、その不幸を不幸と決めつけるところからその夫婦は脱却できたから不幸ではなくなったのじゃないかと思いました。それはその〈不幸〉を奥さんのとある言葉が先生の言うやり方で生の中に意味づけた、というのではなく、先生が思っても見ない、気づけることのない別のやり方で〈そのまま〉転じたと取る方が良いのではないかとも思いました。

 また、引かれた〈死〉も劇的な、ジャーナリスティックな事件・事故に関わる〈死〉であることが多かったのもどうかと思いました。ある例は、先生によると、裁判で勝つことが唯一の意味づけになってしまっていて、その理解はちょっとお粗末すぎると思いました。

 「こういう話はいくらでもあるんです!」とおっしゃってました。それはそうでしょう、人間の数だけ死があるわけだし、それを上回る数の不幸があるわけですから。それならば別に新聞に載るほど「悪い」ものを引く必要はないだろう。もちろん、たくさん紹介する意味もないだろう。人の死をたくさんならべて一体何をどうするのか。主張一つに例ばかり並べてまるで小林よしのりだ。効果的な場合もあるけれどそうでない場合もいっぱいある。

 ある人が「人間みんな死ぬんです」と言うときに、たくさんの死を例として引く。紹介される悲惨な例には、誰もが心奪われて涙するかも知れない。しかし、もしその人が「みんな死ぬ」の「みんな」に「自分」という現象を重ね含めて考えているのでなければ、引用される死そのものには意味があるにも拘わらず、その引用行為にはまったく意味がない。

 今日の先生の場合で言えば、「こういう話はいくらでもあるんです!」と言った、その「こういう話」に自分という現象にまつわる交換不可能な不幸や死は含まれているのかどうか。わたしには、まったく含まれていないように思えてならなかった。

 死も不幸も、一つだけをじっくり見つめて考えて、深いところで味わって寄り添っていけば良いじゃないか。というか、それしかできないでしょ、我々第三者的な立場の人間には。 ‥‥ と思いました。あんまり引き方が無責任すぎて、興味本位すぎて、非常に失礼に感じました。

 ‥‥と思いながら、無茶苦茶不満に思いながら聞いていたら、「アメリカの医療は日本の医療より良い!」という内容のことをおっしゃいました。わたしはそれで「あ、これは駄目だ」と確信せざるを得ませんでした。なぜ駄目だと思ったかと言うと、アメリカの医療というのは、盲腸の手術を受けた人が即日退院しなければならないほど保険が駄目だし、『ER』でもよく問題にしているように皆保険じゃないから十分な医療を受けられない人も決して少なくないらしい、そういう医療であることを知っているからです。臓器移植なんてその最たるもんで、お金持ちしか受けられない医療行為の代表である。また、問題にすべきところを問題にせずさらりと流して不完全極まりないパーソン論や功利主義的思考法をよりどころとして明後日の方向に進んでいる医療でもある。 ‥‥ そういう医療を絶対的な善として位置付けようとする、先生のその思考って何なの。

 「まったくまったく乱暴で危ないことをいう人だなあ」と思って諦めていたら、「臓器移植もそうだ!」という内容のこともおっしゃいました。こりゃぁ本当に駄目です。つづめて言えば、日本で子どもの心臓移植が出来ずにアメリカに渡るのは、日本がアメリカほどすばらしくないからなんだそうです。「アメリカが日本より乱暴なことをやっているからに過ぎない」という判断はなぜ下されないのでしょう。まあそのように判断するのは難しかったり度肝を抜いたりするもんですからそう判断できないのは仕方ないとしても、でも、実際にはどうなのか、ならびにどうすべきなのかを、表面的な知識で語り尽くせると考えてしまう、その判断って一体どういうことなの。むっちゃくちゃ怠惰。

 この先生は西日本中で講演会をされているんだそうですが、わたしなりに総括すると、聞くべき話ではありません。ジャーナリスティックな話題に飛びつきやすく、実際がどうなのかをよく調べず考えず、新聞・雑誌の感想や茶飲み話の水準で「真実」を語ることができると勘違いしたまま、ものごとをほとんど考えずに直感だけで決めつけて、新たな事実に気付いても一切更新せぬまま大きな声で喋り続ける、そういう人にしか思えません。話題として選択された事件・事故・不幸・死が興味深いことは認めます。しかし、それをただ単なる「ネタ」の水準におとしめて満足するってのは一体どうなの。わたしにはそのような態度は非常に失礼なものに思えます。

 突然大声で叫ぶのも大嫌いでした。音の効果を考えておられたのかもしれませんがはっきり言って逆効果でした。たぶんわたしらの何人かが眠りながら聞いていたから腹立って起こそうと思ってそのようにされたのだろうと思います。でもわたしは聞いているのですよ。聞いている人間の聞く気を削いでどうするつもりなのか。わたしにも聞く気をなくして眠れと言うのか。

 ‥‥という午前中の講義でした。悪口ばっかりですね、わたし。良かったところがなかったのかどうかと言いますと、 ‥‥ なかったです。皆無でした。

 お昼ご飯の後は、先日実施された布教実習の会計報告会でした。各班ごとにじっくり時間をかけてやったので、21班中19番目だったわたしの班の順番が来たのは18:00でした。

 夜はヒロシマから友だちが出てきた、というか戻ってきたので一緒に飲みました。いつ行けるかわからないので18:30開始の予定をしていたら、もっと遅くなりました。三十分くらい遅刻。申し訳ありません。この世に携帯があって良かった。友だちの友だちも来ました。「押して駄目なら」という話で、わたしは当然「引く」と思ったのに、友だちたちは「押し倒す」と言ってはばからない。おかしいな? 俺には押し倒す選択肢は許されなかったのにな? と思って気付いたことには、友だちたちは女の子たちなのでした。だからそれが許されるんですね。「俺はどんだけ好きでも押し倒せないな。見込みがないのに間違って引いてしまって、ヒトから見ればあたりまえの結果に、でも自分としては大失敗!したこともあるなあ。良いねきみらは押し倒すことができて」「あなたがやったらそれは単に強姦です。押し倒しちゃだめです」とのことでした。なるほど、選択肢になくて大正解だったのですね。なお、話しぶりからは両方ともそういう(押し倒す)経験があるようでした。

 久しぶりに日本酒をたっぷり飲んで、かなり酔ってしまいました。どのくらい酔ったかと言うと、カラオケで気分がでかくなってほとんどおごってしまったり、帰りに駅から2キロくらい一人で歩いたんだけど全然苦にならなかったり、です。


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2005年6月30日 [伝道院(2005前期)]

 実演試験二日目。

 前日に引き続き、実演試験をしてる人に時間をお知らせする手伝いをしました。途中、睡眠欲の限界に何度も襲われ、一生懸命に耐えたけど、どうしても駄目な時も何回かあって完全に落ちた瞬間も2度か3度ありました。これはいかん、と思って机にヒジを突いて目の周りをぐるぐる押さえたり、こないだ美容院で聞いた目のツボをぐいぐい押さえたり、頭にある何かわからないツボっぽいところを全部押さえたりしながら聞き続けて、終わってふらふらしていたら、寮務さんから「あの寝方は何。お聴聞の態度としてなっていません。見ていて不快でした」と言われました。

 「起きていよう起きていようもったいない聞いていよう聞いていよう」と思ってツボを押さえまくっていたのが「不快!」に見えるというのは正直びっくりしましたが、そのように見えるものなんだなあと思いました。その指摘は指摘として真摯に受け止めようと思いました。

 しかし法話実演試験なのだから、法話を実演していた人がすべてなんじゃないか、とも思いました。わたしの態度が実演者のものごっつい邪魔になっていた、あるいは邪魔になっていたはずだ、という指摘ならわかるのだけど、「(わたしにとって)不快だった」と言われても少しトンチンカンな感じがしました。ちょっと(いや実際にはかなり)むっとしました。

 でも「慥かに悪かったな」と思い、実演されていた方に謝りました。許してくれました。よかったです。「いや、話すことであっぷあっぷしていてきみのことなんてとてもじゃない見てられなかった」とまで言ってくれました。

 寮務さん、指摘してくれてありがとうございました。まだお礼を言っていませんでした。日記に書いていてやっと整理できました。

 夜は総会所でお聴聞でした。お説教の途中で大声で叫ぶ人ってわたしは苦手です。それまでは流れるように語っておられたのに突然大声になられると鼓膜が非常にしんどいです。多分わたしが特殊なのだろうとも思いますが、多くの場合、わたしは突然の大声が苦手です。集中力がやられてすごくイライラするからだろうと思う。


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2005年6月29日 [伝道院(2005前期)]

 実演試験一日目。

※実演試験
 時間:13~15分(長すぎても短すぎてもアウト)
 形態:一人ずつ前に出て実施。
 順番:北から南へ。
 お聴聞者:自分以外の受講生全員
  ならびに全指導講師(最後列に整列。合否判定を行う)
  ならびに寮務さん(ヨコにいて13分と15分に鈴を鳴らしてくれる)
  ならびに事務方も。です。

 試験中、実演者は自分で時間を確かめることができません。原稿を見ることも出来ません。また、お聖教を開くこともできません。そんな中で13分の鈴が鳴ると泡食うので、いちばん前に並んでる受講生が5分、10分、11・12・13・14分でペンを並べて注意を喚起することでデフォルトの目安としました。わたしは5分の合図を欲しましたがそういう人は稀でした。大体みなさん10分からの表示で良かった。たまに「8分と12分だけで良い」的な要望もありました。お話の流れ・切れ目なのでしょうね。

 布教実習にて話させていただいた法話をそのまま・あるいは少し修正して話す方が圧倒的に多かったです。わたしもそうでした。でもわたしの場合は大幅な修正が必要だったので前日や前々日(の特に夜)はとてもしんどかった。展開上大事なところが何カ所かぽんぽん飛んでしまいました。最終的な着地点みたいなところには着地できた、ように思っていますが、しかし実際はどうだったのかなあ。

 自分の試験後は実演者一人一人に時間をお知らせする手伝いをしました。内容が興味深くてもご法話に没頭すると時間のお知らせができなくなるので集中力がかなり要りました。かぶりつきで見られたのはとても良かったなあ。

 43人全員が一日で試験を終えることは到底無理なので、半分だけが実演して、半分は二日目に回りました。ほぼ真ん中、大阪の途中で一日目が終わりました。

 夜は二日目に実演を控えている人の練習に茶々を入れました。自分がもう終わったことを他者があっぷあっぷして頑張ってるのを見るのは微笑ましいような、俺ももうちょっと練習すれば良かったのになあと思ってしまって残念なような、変な気持ちでした。二人のを聞かせてもらいました。判定するのはわたしじゃないからアレですが、両方とも「これは間違いないだろう」と思えました。聞いていて安心できたり楽しかったりするっていうのは、とても良いことだと思います(わたしのは皆さんハラハラされます。また、ところどころわけがわかりません)。


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2005年6月28日 [伝道院(2005前期)]

 午前中は海外開教の講義でした。海外で開教師をされていた先生の体験談など、とても面白い講義でした。しかしわたしは肉体的に限界に達しつつあったので、何度か落ちました。申し訳ない。

 昼休み、宗学院に論文を提出しに行きました。午前中は白衣に布袍輪袈裟で講義を受けていたので、せっかくだからそのまま行きました。そしたら汗だくになりました。そうでした、今はものごっつい梅雨なのでした。次からはもっと時季を考えることにします。

 午後は「宗門の組織と活動」という講義でした。たぶん一応きちんと聞いていたんじゃないかと思います。でも疲れ切っていたからか、あまり覚えておりません。


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2005年6月27日 [伝道院(2005前期)]

 日曜日から月曜日にかけては外泊許可日で、月曜日は21:00までに帰寮すれば良い日でした。伝道院でお世話になり始めてからこっち、平日の昼間にゆっくりしていた記憶がありません。なのですごく新鮮な気分がしました。

 宗学院の卒業論文、訂正があったので最終稿(候補)を提出すべく、書式に則ってレイアウトを整え、引用・参考文献の年代表記を統一し、プリントアウトしました。註が多すぎるような気が少しします。査読される方からまた連絡が入るそうなので、それを待つことにしました。

 ぼーっとしていたら、法話実習の引率・指導の先生から「もっとちゃんと日記書かんかい」というメールをいただきました。慌てて一日分だけ書いてアップして寮に戻りました。先生! 僕ネット大好きだから日記を書いてない時の多くの場合には止むに止まれぬ物理的な理由があることが多いのです! いや言い訳です!

 風呂に入ってから寮に戻りました。


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2005年6月26日(2) [伝道院(2005前期)]

 みっかめ。

 三日目は彦根のお寺の永代経の場でお話しさせていただきました。

 私ともう一人と、同じ班の実習生で連れ立って寮を出て京都駅に向かって歩いていたら、専門学校の時にお世話になった先生を見かけました。わたしら二人とも中仏出身なので走ってって挨拶させてもらいました。これから最終日の布教実習に向かうこと、ならびに指導の先生は去年専門学校の寮で講演会をされたあの先生であることなどをお伝えしました。

 会所寺院に行きがけ、彦根駅そば、平和堂のレストランで昼食をいただきました。店内ではあみんの『まつわ』がかかっていました。ただし歌っているのはあみんではない。誰かがカバーしてるんだろなと思って聞いていたら今度はウインクの『淋しい熱帯魚』がかかった。ただしやっぱり本人が歌ってるんではない。どうも同じ歌手が懐メロを何曲も続けて歌ってるCDか何かをかけてるっぽいね、いやそれにしてもこれは歌手の歌なのか? 伴奏は軽いし、歌にしてもぺらぺらな、カラオケがちょっとうまい中学生がちゃらりと歌ったのを録音したと言われても不思議がないくらい奥行きがない声だなあ、ああそうか、きっとこれはモー娘。かモー娘。系のユニットだよ、だからつんくの趣味でこういう懐メロになってるんだよ、ごまっとうか何かだよ、いやそれにしても歌ってる人数が少ないみたいだからそうでもないかもしれない、というかごまっとうがこんなに特徴のない声であるはずがない、俺だって松浦亜弥くらいはわかるつもりです、じゃあ何だろう? 誰だろう? なんのCDだろう? ‥‥ などなど言いながらゆっくりご飯をいただいて、ゆっくりゆっくり過ごしていたら、再びあみんがかかりました。 ‥‥ どうやらCDが一周したようでした。

 ちょうど良い時間にもなっていたので、そろそろお寺に向かうことにしました。でも、一体誰の何というCDなのかが非常に気になったので、会計担当の友だちに店員さんに聞いてくれるように頼みました。「ひどいなあどうして僕が聞かないといけないんですか」「いや、ははは」

 彼が恥を忍んで聞いた結果、だぶるゆー、であることがわかりました。そうでした、そんな集団もありましたね。つんく、モー娘。、そこまでは合っていたのになあ。

 お寺に向かうタクシーで、運転手さんに尋ねて彦根城を見ました。山城って感じがしました。こじんまりとして実直に建ってるように思えて、他の土地の人に向かって自慢できそうな良いお城に見えました。わたしお城詳しくないけど、あれはきっと良いお城なんだろうなと思いました。

 別の山すそには、個人で建てたという金閣っぽいのや、何重の塔みたいなのや、お城みたいなのや、いろいろ建ってるのが見えました。 ‥‥ これは何やら得体が知れませんでした。なお、こちらはレストランの窓から見えたので、そしてあまりに気になったので、ごはんをいただきながらわたしが店員さんに聞いて「個人が建てた」という事実を聞きました。

 そして、会所寺院にてのご法話実習です。

 私たちにとっては最終会所なので(会所寺院さんにとっても私たちが最終実演班でした)、どの話をカットして時間あわせをするということではなく、「話さなければならないこと」と「話したいこと」との区別を付けたり、話したいだけ話すとどのくらいかかるのかを知るためにも、取りあえず全部話してみるべきだろう的なことになり、またご住職さまからも破格のご配慮をしていただけたこともあって、受講生は二人とも、15分の設定のところで25分くらい喋って、聴聞班の先生はひそかに頭をお抱えになっていたんだそうです。

 「石田くんの話、脳死のことを話してるところはみんな聞くなあ。でもご法義の話になると、みんなあんまり聞かなくなるねえ」@反省会

 わたわたしてるからだなあきっと。あと本人に法に出遇えたヨロコビがないからだなあきっと。

 ご法座の後、聴聞班の方々はその後の予定があったせいでしょう、さっくり帰って行かれました。わたしたちはご住職さまの指導を受けました。指導と言いましても、ご住職さまと坊守さまが用意してくださった、ばら寿司と○○寿司の合体したちらし寿司や、家庭菜園で穫れたとしか思えない完熟トマトのすっごい美味しいサラダとか、琵琶湖の稚鮎を煮たものや(お酒が欲しくなりました)、ナスの煮物や、 ‥‥ ものすごい美味しいものをいただきながら、住職さまが嬉しそうに、本当に嬉しそうにお話しになるのを聞かせていただいていた感じです。

 18:00頃に帰ってきて、ごはんも軽くいただいて、伝道院の前で先生を見送りました。 ‥‥ いま思い出した感じでは、あれは本当ならわたしら二人は先生の荷物を持って付き従って駐車場まで行くべきだったんではなかろうか。すみません。

 野球がちょうど終わった頃に部屋に帰り着きました。録画してあったデスティニィとツバサを見たり、メールチェックをしたり、日記の更新をさぼったりして寝ました。

 彦根、良いところですね。クラブハリエがあるし。


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