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瓜生さんと森岡さんのInstagram対談 [生命学]

インスタライブ対談の録画が公開されました。
【インスタライブ対談】(森岡さんのInstagramへ)

真宗大谷派の僧侶で実存的に信を実践なさっている瓜生崇さん(滋賀県・玄照寺ご住職)と、
早稲田大学教授で哲学的に実存的にあえて自覚的「無宗教」の立場を貫かれている森岡正博さんとが、
Instagramで対談をなさいます。

複数の著書のあるお2人ながら、
この対談の前に読むべきは、

瓜生崇『なぜ人はなぜカルトに惹かれるのか』
森岡正博『宗教なき時代を生きるために』
ともに法藏館刊 です。

瓜生さんの本は、信の立場から已今当(過去・現在・未来)の自分を掘り下げています。また、客観的にカルトの話を読もうと思っていた読者に「では正しさとは何でしょうか?」という感じの問いを突きつけて、自分はもはや当事者でしかありえないということを自覚させます。(させないかな?)彼らとわたしたちの間に境界はない。

森岡さんの本は、信仰に身を投じる若者の心を、自分の身と心に引き当てて、自分を棚に上げず、きちんきちんと考えていきます。信の手前で引き返すことの出来た森岡さんは、彼らと私たちの間の境界をよりはっきりさせようとしているのか、境界が実はないということをはっきりさせようとしているのか、……。

うちには両方ともサイン本があります。あっ、関係ないですね。

とにかくこの対談、たのしみでたのしみで。
しかし30分で終わるのは無理があると思います。

お時間合いましたら、ぜひどうぞ。
わたしもなるべくリアルで経験しようと思っています。

https://www.facebook.com/michiyo.toshiro/posts/2975276395890021
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現実はいろんな意味でSFに追いつくべきだし、追いつこうとして良いと思います。技術だけでなく、サポートも。 [生命学]

今日のニュースから。
第三者から提供の卵子で初の受精卵
NHK 7月27日 14時59分

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150727/k10010168021000.html

妻の病気などが原因で妊娠できない夫婦に、匿名の第三者からの無償の卵子提供を仲介するNPO法人が東京都内で記者会見し、2組の夫婦に初めて、ドナーから提供を受けた卵子と夫の精子による受精卵が出来たことを明らかにしました。
会見したのは、病気などで不妊となった女性とその家族、それに専門の医師などでつくるNPO法人「OD-NE」です。「OD-NET」は27日、2組の夫婦に、それぞれ、ドナーから提供を受けた卵子と夫の精子により複数の受精卵が出来たことを明らかにしました。NPOによりますと、民間の卵子のドナーバンクから匿名で提供を受けた夫婦に受精卵が出来たのは初めてだということです。
いずれの女性も体調に異常はなく、今後、ドナーの感染症の有無を確認したうえで、年内にも子宮に移植するということです。
会見では、ドナーの手記が読み上げられ、「不妊治療をしている夫婦の助けになりたかった。生まれてきた子どもがどこかで幸せに暮らしていると思うとうれしいし、私自身の幸せにもつながる」とつづっています。また、夫婦は「感謝の気持ちでいっぱいです。これからは自分たちが頑張る番だと思っています」とコメントしています。
一方で、NPOによりますと、これまでに卵子のドナーとマッチングした合わせて23組の夫婦のうち13組が、子どもが自分の遺伝上の親を知る権利の在り方が定まっていないなどとして卵子提供に至らなかったということです。このためNPOでは、国に対し、第三者から卵子の提供を受けるなどの生殖補助医療について、法律の整備を進めるよう求めています。

『AIDで生まれるということ』という本は、「他人の精子」の提供を受けて生まれた当事者たちの手記がいっぱい集まった本です。研究者が話を聞きまくる鼎談のようなものもある。たぶん「子どもが欲しい、どんな手段でも。」という人の声だけでやってはいかん……、という言い方はちょっと違いますね。やるならやるで、もうちょっと周辺のことを深く広く考えた方がぜったい良いよね、という問題を提起してくれています。

この声に応えきれないうちに、わたしたちは、卵子で同じことをしちゃっているのですね。

長いけど続きを読んでみる?


佐藤伸彦さんの講演会。 [生命学]

お知らせです。
2014年8月30日に、佐藤伸彦さんの講演会が、とかちプラザで開催されます。
【8月22日までに申し込む必要があるそうです。】

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佐藤さんは
『家庭のような病院を』という著作のある、お医者さんです。
http://d.hatena.ne.jp/kanjinai/20080509/1210309595
(上は、森岡正博による、書評。)

本人のための看取りや、そのための研究や、実践的な活動をなさってます。
著作の中で「こういう病院をつくりたい」と言っていた、
そういう、看取りのための病院を、現在は富山に開院されています。

http://www.narrative-home.jp/
(ナラティブホーム ものがたり診療所)

いま、日本では「ナラティブ」という少し言葉がはやっている…、
ように思います、そのはしりの方です。

講演会を主催してくださる第一病院では
看取りを考えるための市民講座を以前から開いています。
去年もなさってました。
その活動の一環だと思われます。

佐藤さんの写真の下の、
この講演会とシンポジウムのコーディネータの酒井医師は、
佐藤さんの大学の後輩だそうです。

とにかく、佐藤さんは、
今後の日本の看取りを考えたり、実践したりする上で絶対に外せない人物です。
ネットでは何度もお話したことがあります。
一度だけ直接お会いしてお話しさせていただいたこともあります。

石田が言うと説得力がなくなるのであんまり言いたくないのですが、(汗 
とにかく、あったかい方です。
すごい方です。

なので、8月30日、一緒に講演会を聞けたらなと思い、お知らせいたしました。
看取りを考えることと、佐藤さんのお話と、どちらも得がたい機会だと思います。

ではでは。失礼します。

『まんが 哲学入門』のお知らせ [生命学]

哲学者である森岡正博さんの
「感じない男ブログ」 http://d.hatena.ne.jp/kanjinai/ によると、
森岡さんが新しく本を出されるそうです。
http://d.hatena.ne.jp/kanjinai/20130603/1370263521

どうもフツウの本ではないようです。

7月18日に講談社現代新書から、
森岡正博(原画・文章)/寺田にゃんこふ(作画)
『まんが 哲学入門 ―― 生きるって何だろう?』(講談社現代新書)
が発売されます!!
この本の画期的なところは、
哲学者(=森岡)自身が、220ページのコマ割りのあるマンガ全編の絵を描き下ろしたこと。
・過去の哲学者の思想の紹介や、哲学史の紹介をマンガでしたのではなく、「時間」「存在」「私」「生命」の4テーマについての著者自身の思索が描かれていること
・左開きで、吹き出し文字が横書きであること。これは、日本のマンガの伝統破壊なのである。
というあたりです。マンガの版下は、プロの漫画家の寺田にゃんこふさんに作成していただきました。すばらしい線です。

とのことです。

森岡さんが 「発売されます!!」
と感嘆符を二つも使うなんて、よっぽどのことだと思います。
これはたぶん全裸正座待機ものと思われます。
また、
というわけで、今度の新刊は、まんが哲学入門です! 「感じない男」→「草食系男子」→「まんが」、こういう展開を想像した読者はほとんどいなかったのでは?

と、すごく「得意げです」というか何んというか、何んかもう、ね、たぶん
一人も予測してませんでしたから!

ふうぅぅ。
原画と版下も公開されてます。
絵むっちゃうまいやん!
なんなん!?

……そして最後には
本書についての追加情報は、twitter
https://twitter.com/Sukuitohananika
にて書いていきますので、フォローしてみてください。

とあります。ぜひどうぞ。
(あーびっくりした。)

新出生前診断に関する記事について [生命学]

今日、2013年1月15日の北海道新聞の第10面に、
新出生前診断に関する、こんな記事がありました。
大変に興味深いので、ご紹介いたします。
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20130115_10_mono_3.png
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北海道新聞 2013年1月15日 第10面

続きを読む


「第三者の卵子提供」の記事について。 [生命学]

今日、2013年1月15日の北海道新聞の第24面に、
第三者の卵子提供を募る団体に関する、こんな記事がありました。
大変に興味深いので、ご紹介いたします。
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20130115_24_4.png
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北海道新聞 2013年1月15日 第24面

続きを読む


本人の意思と、「世間体」と。 [生命学]


『逝かない身体』でおなじみ、
川口有美子さんのツイートです。

哲学者・森岡正博さんの新聞記事について、
「待ってました!」とおっしゃってます。
わたしも「待ってました!」と思いました。


宗教学者・島薗進さんのツイートです。

森岡さんの同じ記事について、
「学ぶ所多い」とおっしゃってます。
わたしも同意見です。

ツイッターをされてない方のために。
その森岡さんの記事は、

http://www.bakubaku.org/20120626chugoku-np-.pdf

こちら↑で読めます。


意思表示が出来ない子どもからの臓器提供。

これは、美談、美談で終わる話ではありません。
マスコミの多くは何か勘違いしているのか
なんでも美談、美談で終わらせて、そこから始めようとしているようですが、
物事はそんな単純なものではないのです。

なお、わたしとしては、森岡さんの意見にほとんど同意で​す。

そのような意見を表明すると
「移植を待っている子どもが死んでも良いって言うんです​か。
 あなたの言っていることはそういうことですよ、酷い人​ですね!」
という意味のことを言われることもありますが(mixiなどでね)、
そういうことではないのです。

いきなり「はかり」にかけて考えるべき問題ではないです​。

その「はかり」は、そもそも、
別の「はかり」の片方の上に乗っているのです、
脳死の人のいのちと、移植を待つ人のいのちをはかって、
後者がより重たいと考えるはかりの上に。

それって、どうなの?

と、わたしは思っています。

ただし、本人がその「はかり」で良いと言っている場合に​は、
まあ、良いのではないかというのが、改正前の臓器移植法​でした。
(本人同意が法的に確認できる場合は摘出可)
だから、わたしは黙認していました。
ギリギリの妥協ライン。
中島みち『脳死と臓器移植法』の方向。

脳死と臓器移植法 (文春新書)

脳死と臓器移植法 (文春新書)

  • 作者: 中島 みち
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 2000/11
  • メディア: 新書


法改正は、悪い方向にいったと思っています。

大人も、子どもも、同様です。

子どもは親権が云々って言い出すかもしれませんが、それ​にしてもフィリップ.K.ディックの『まだ人間じゃない​』みたいな現実が出来するだけではないでしょうか、と結​構本気で思います。
まだ人間じゃない (ハヤカワ文庫 SF テ 1-19 ディック傑作集)

まだ人間じゃない (ハヤカワ文庫 SF テ 1-19 ディック傑作集)

  • 作者: フィリップ K.ディック
  • 出版社/メーカー: 早川書房
  • 発売日: 2008/03/07
  • メディア: 文庫


尊厳死協会の言う似非尊厳死の話もこれと同様の方向に思​います。
たいへんに、怖いです。

人の生を終わらせるための何らかの判断がひとたび

美談

で語られるようになると、なかなか歯止めが利きません。
そうなる前にきちんと考えておきたいです。



大丈夫ですか?

以下、関連書籍です。

脳死の人―生命学の視点から

脳死の人―生命学の視点から

  • 作者: 森岡 正博
  • 出版社/メーカー: 法蔵館
  • 発売日: 2000/07
  • メディア: 単行本

逝かない身体―ALS的日常を生きる (シリーズケアをひらく)

逝かない身体―ALS的日常を生きる (シリーズケアをひらく)

  • 作者: 川口 有美子
  • 出版社/メーカー: 医学書院
  • 発売日: 2009/12/01
  • メディア: 単行本

国家神道と日本人 (岩波新書)

国家神道と日本人 (岩波新書)

  • 作者: 島薗 進
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2010/07/22
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

いのちの選択――今、考えたい脳死・臓器移植 (岩波ブックレット 782)

いのちの選択――今、考えたい脳死・臓器移植 (岩波ブックレット 782)

  • 作者: 小松 美彦
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2010/05/08
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

良い死

良い死

  • 作者: 立岩 真也
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 2008/09
  • メディア: 単行本


脳死関連で、薄くてわかりやすくてすごいのは、
『いのちの選択』だと思います。

ではです。

○○が××を食べた。 [生命学]

昨日、うちのネコがトリを食べた、と日記に書きました。

わたしとしては結構おどろいたのです、だってうちの ちび は相当な老猫なのです。そんな彼があんなに敏捷なトリを獲るだなんて。昔はよく獲って食べてるのを見ましたが、この歳になってまだ獲るとは! という驚きでした。しかし食べ残し加減がいいかげんで、ああ、うう、トリさん可哀想かなと思いました。

しかし、ネコがトリを食べるくらい、どってことないですね。↓

29日に、森岡正博さんがツイッターで
日本人男性、自分の性器を医師に切除させ、清潔に処理して調理し、2万円で客(同意の上)にふるまう。この行為は、セクシャルマイノリティ・Xジェンダー・Aセクシャルへの注意喚起のためになされた。日本では食人は違法ではないため杉並署は動いていない。http://news.yahoo.com/japanese-man-cooks-serves-own-genitals-001515144.html

と紹介してくださいました。驚きました。

今日は今日で、その情報が日本語になってるのを見ました。杉並「保健所」が動き出した、と。感染症か。なるほど……。
「人肉食イベント?:杉並保健所が調査を開始」
http://mainichi.jp/select/news/20120602k0000m040102000c.html

……また、アメリカの高速道路で、全裸の人が別の人の顔を食べた、という話を見ました。日本語のページで見ましたが、ココが↓紹介されているので、英語よく分かりませんが、こちらを紹介。

「Naked man shot dead by police as he chewed victim's face off by side of freeway」
http://www.dailymail.co.uk/news/article-2150585/Naked-man-shot-dead-police-chewed-mans-face-leaving-victim-fighting-life.html

後者は生きてるのを食べちゃうのだから食べられた人が困りますが、前者は食人という禁忌を犯したという以外には、案外問題がないのかもしれないなあと思いました。(いや、わたしはイヤですよ? 誤解なきように。)

医療関係の治療その他では、経口や非経口で、他の人体の一部を摂取するとか、とりこむとか、そういうのはよく行われています。

大学院の先輩は、おつれあいが子どもをうんで、胎盤を二人で食べたと言ってました。病院じゃなく助産師さんのいる施設で生んで、よく焼いてもらって食べた、美味しかった! と。そういうことがあると何かで知った直後に聞いたのでそんなには驚きませんでしたが、実際に食べた人の感想を聞いたのはそれが初めてでした。「栄養面からいくと生んだ人は食べた方がいいらしい」と言っていたような気もします。

臓器移植は、食べるわけではありませんが、他者の人体の一部を自分の体内にとりいれるものではあるわけです。輸血もそうです。「臓器移植反対!」と言う人に「賛成!」の人が「輸血もダメですか?輸血だって臓器移植ですよ!」と言って驚かしたり脅したりする場面がありますが、血液も機械では作ることができませんから「臓器」と言って過言ではない部分があります。なので、輸血も、じっくり冷静に眺めたら、臓器移植のようなものではあります、ただ、血液を提供する人は死なないし、もともと健康に多大な影響があるほど採るもんではありませんから、「まったく同じ」とは言えません。「同じ面がある」と言うべきだろうと思います。輸血ということに違和感を感じない人は臓器移植のすべてを認めるべきだ、という言い方になると、ちょっと違う気がします。

心臓とか肝臓とか以外に、硬膜も、骨も、臍帯血も、皮膚も。機械や培養技術では作り出せないものを「こっち」から「あっち」に移動させる系のものは、目に見えた「臓器」以外にもいろいろあったのでは。

そんなふうに、人体は案外「食人」というイメージでないなら結構にんげんによって摂取されているものではある。

だけど、今回のペニスや顔面の話を聞くと、やっぱり「えっ?」と思うし「やめてくれ!」と思う。それってなんでだろう?と思うと、

・モノのカタチが残っているのを
・口で摂取する

ということが、まずすごく違和感というか、拒否感になるのだろうなと思います。他の方はどうかわかりませんが、わたしはそうです。また、

・必要に迫られていないものを
・嗜好で摂取する

ということもあるのかなと思います。『ハンニバル』の怖さもそこでした。「なんでそんなことするの? 豚も牛も美味しいお肉はいっぱいあるじゃない? なのになぜあなたは人じゃなきゃだめなの?」と。

辺見庸の『もの喰うひとびと』にも出てきますね、人肉食。
武田泰淳の『ひかりごけ』にも出てきますね。
原一男『ゆきゆきて、神軍』。
飛行機が遭難して……という実話もありますね。
「ぞわぞわ」が文学的なテーマになるのでしょうね。

有史以前の人類は結構ヒトを食料にして喰っていたとも聞きます。「その証拠の一つが貝塚だ」と。貝塚からはその名の通り貝がゴロゴロ出てくる。一緒に人骨もいっぱい出てくる。「なんで?」と思ったら「喰ってたから」と。ゴミを捨てる場所を決めて、そこに食べかすを捨てた。貝の殻は必然的にそこに捨てることになるし、動物の肉を食べたら骨が出る、それもそこに捨てる。ヒトを食べたら、その骨もそこに捨てる、バラバラの人の骨が貝塚から出てくるということは、そういう面もあったようだ、と、高校の時に聞いたのだったか。

でもそれは「必要に迫られて」ということだったのでは?と思いたいです。筒井康隆のある小説に還暦を過ぎた人間を栄養源として喰う話があります。あれも必要に迫られてのことでした。あんな感じで。

または、有史以前か、あるいは有史以後も、人間が人間を積極的に喰うことがあったそうです。どういうことかというと、戦いで、強い相手を倒したら、相手の力を自分の力とするために相手の一部を喰う、そういうことが行われていたと聞きます。何かの小説では敬意を持って食べるか何かそういう場面があったような気がします。SFだったろうか。

なので、「カニバリズムには二種類ある」。食料として人肉を食するのと、パワーを得るために強い相手を殺して呪術的に喰うのと。

今回のペニスは、違いますよね。たぶん。なんで食べるのか。まあ、嗜好なのでしょうが、でも何か理由があって「食べずにいられなかった」というところまでいったうえでの嗜好だろうと思うので、それは広い意味で言えば「必要に迫られて」ということであるのかもしれません。興味本位でそこまでするとはちょっと考えづらいので、何らかの呪術的な要素や要請があったのではと思いたいです。

顔を食べたのは、……どうも変わった人だったらしいから、これは端から呪術的な面があったのかなと思います。(アンパンマンフリークってわけではないですよね。アンパンマンの顔を食べてみんながアンパンマンのパワーを手に入れられるならそれはそれで素晴らしいことだと今ちょっと思ったがそれは潔くおいておこう。)

ということで、どちらも呪術的な要請によるのだと、今のわたしは思っています。呪術ってことは、これはまさに「野蛮人」であるわけです。

これらの行為や行為者を非難するなら、わたしは感情的に「野蛮人!」と言うことにしようと思います。しかしわたしいちおう野蛮人ではなく文明人を目指したいので、ってことは他人をそうやって非難すること自体を避けるべきかなあとも思うので(文明人は感情的な非難なんてしないのさフフ)、そんなふうに言わないでいるべきかなあとも、思います。

何が言いたかったのか。

たぶん、「うちのネコがトリを食べるのは、わたしは驚いたけど、驚くにはあたらなかったのかなあ?」 ということです。

ではでは。今日も長くてスミマセン。

ラトル指揮 ピーター・セラーズ演出 ベルリンフィル バッハ『マタイ受難曲』 [生命学]

サイモン・ラトル指揮のバッハ『マタイ受難曲』Blu-rayが届きました。
http://www.hmv.co.jp/product/detail/5046205

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キリスト教の方が、わたしじゃない方に勧めてたのを見て、おお、と思い購入。最初にベルギー?ドイツ?で通販されてたようですが、わたし英語があんまりなのでわからず、そのうちアマゾンで出たら買おうと思っていたけど、先にHMVで扱いが始まりました。

『マタイ受難曲』は、武満徹という日本の作曲家が亡くなった後、NHKが追悼番組をして、立花隆が出てきていろいろ語り、最後に「武満さんがいちばん好きだったクラシック曲が『マタイ受難曲』です。武満さんが入院して、亡くなられる数日前にNHKのFMで『マタイ受難曲』を全曲流したんです。恐らくそれが、武満さんが、病に伏せりながら病院で、生涯で最後に聞かれたクラシックになったと思います。いちばん好きな曲がこのタイミングで全曲」みたいな話をしていて突然「わっ!」と泣いたのを見て、強烈に印象に懲りました。

「なんかすごい曲っぽいぞ?」

その後、たぶんそれを受けて、NHKのクラシック音楽の時間に、どなたか音楽家が出てきて「今日お送りするのはバッハの『マタイ受難曲』です。大曲です。わたしは、クラシックを一曲だけ残せ、一曲しか残すなといわれたら、『マタイ受難曲』を残してくれと言います」と言っていたりする。なんか遠くを見ながらそういうふうに言う。

で、そのNHKのクラシック音楽の番組をVHSに録画して、聞きました。

圧倒。

すごいなあと思う。

リヒターという人の指揮。ボーイソプラノってなんでこんなに泣けるの。聖書をそのままってすごいね。受難曲って福音書なんだ。だから「福音史家」なんだ。

イエスさんが亡くなるところを、こんなふうに味わったら、みんな泣いちゃうじゃないか。これをこんなふうに音楽にできちゃうバッハってすごい。そして、そこから、自分の信がきちんと世界に位置づけられるって、すごいじゃないか。これから何を自分がしていくべきなのか、こんなふうにきちんとわかる曲って、すごいじゃないか。

2000年前に起こったことが、いま・ここ・わたしのためだったという事実を、そのまま事実として感じられる曲って、すごい。なんなんだバッハ。なんなんだ福音書。なんなんだ『マタイ受難曲』。

゜・(ノД`)・゜・。

その後、小澤征爾氏が長野で「サイトウキネン」というオーケストラで全曲なさったのが、やはりNHKで流れました。これもVHSに録画。視聴。リヒターの重厚な調べとはうってかわって、すごく繊細な曲になっていました。これはこれでなんかすごく良いんじゃないかと思う。

その後、龍大の院でクラシックにやたら造詣の深い人に会い、マタイ受難曲のことを話してみたら、「バッハ! リヒター! 大好きさ!」という感じで、CDを貸してくれた。これはつまりあのVHSのCD。なんてクリアな。そのころからDVDが入手可能な感じになっていた。なので二人で「DVD出ないですかね、あのリヒターの」「たぶん生誕百年までかかるんでないかな!」と言っていたら、その前?後?リヒターのDVDは出ました。

http://www.amazon.co.jp/dp/B000FDF19W

すばらしいです。すばらしいです。大事なことなので二回言いました。

その後、わたしも少し落ち着きました。

で、その後、「Blu-ray」というメディアが出ました。たいしたことないんだろうと思っていたら、これがアニメめちゃくちゃ綺麗で。実写もなかなか綺麗で、音質もすごいのです。5.1がデフォルトみたいな感じで、うちにはその再生能力のある機械がたぶんきちんとないんだけど、それでも、なんかすごい。押井の『イノセンス』とか『スカイ・クロラ』とか、坂本真綾の『Gift』(武道館ライブ)とか、『俺妹』とか『ゼーガペイン』とか『AB!』とか『ヱヴァ』とか。めちゃくちゃ綺麗。なんせ音が良い。映像もすごい。すべての場面をポーズして壁紙に出来そうな勢いの画質。

アニメも真綾さんもこんなに綺麗でこんなに音質が良いぞ。贔屓目もあるけど、Blu-rayってすごいメディアだぞ。あとはもう、『マタイ受難曲』のBlu-ray、出ないかな……

と思っていたら、出ました。

それが今回の、サイモン・ラトルという人の指揮するVer.です。

見ました。

゜・(ノД`)・゜・。

良いのはわかってます。しかし、期待以上でした。
このBlu-ray、
http://www.hmv.co.jp/product/detail/5046205
何がすごいかと言うと、
歌うだけではなく、演奏するだけではなく、ソリストが、演技をするのです。
オペラです。
動きながら歌うのです。演技しながら歌うのです。泣きながら歌うのです。
自分が歌ってないところで他の演奏者が思わず泣くのです。

見て・聞いていても、泣けます。

泣くからよいってことではないけど、でも、これは、すごい。

イエスさんが、亡くなられる。

「なんでこんなことになっちゃったんだろう?」と思う。
でも、「こんなこと」があるからわたしは救われるんだ、と思う。
一体なんでこんな辛いことが。
でも、この辛さがつまり救いが確定するということなのだ。
しかし、これは辛い。でもこの辛さが……

↑おそらくこんなふうに↑思いながら、聞く、演じる、演奏する、指揮する、カメラを向ける。

リヒターも、小澤征爾も、すごかった。
ラトルも、すごい。
演出の、ピーター・セラーズという人も、相当にすごい。
演じきった役者も、すごい。

すごいものを見ました。

3時間、圧倒されました。

ああ。

「こんなことが真宗でもできたら」なと思いました、が、それはそれ。なんせ『マタイ受難曲』はすごい。この『マタイ受難曲』もすばらしいです。

ではでは。

いいものをすすめてくださって、ありがとうございます。

脳死から回復。 [生命学]

@Sukuitohananika: 英国で脳死判定されて臓器提供打診された少年がその後完全回復。「脳死判定間違っていた」。スポークスマンのコメント:「これはまれな例だ。回復して良かった」。これが英国等での脳死移植の実態と思うべし。記事には悲壮感なし。http://www.dailymail.co.uk/health/

以上、森岡正博氏のツイートから。

いろいろなことを思うけど、とりあえず思うのは、


「英語が読めたらなあ。」


次に思ったのは


「言い方ってホントに大事ってことなんだなあ。
 だって記事に悲壮感ただよわせて
 〈今までの脳死の基準ってやっぱおかしくね?〉
 って思わせちゃったら
 それで英国の脳死移植は完全に終わりになってしまうわけだから。
 言い方がすべてだなあ」


ということです。

以前、日本人が北米で「脳死です」と言われ、
家族がその方を移送して来たら回復したとか、
そういう記事も昔見ましたし。しかも二例あったと。


「たとえ、臨床的に脳死だと言われても、
 完全に諦めてはいけません、ということなのだなあ。」


そのようにも思いました。


「絶対なんて、ない。」


脳死の基準はクニによって違いますし、ネ。


> これはまれな例だ。回復して良かった

家族が同意してしまっていたら回復はなかったわけです。
というか、回復も何もなく摘出されてしまったわけです。

これがまれなのかまれでないのかは、
スポークスマンが決められることではないと思います。


「脳死の基準と、そのまわりのもろもろ、
 いまいちど、きちんと調べないとだめなのではないか。」


冷静に考えればそこに行き着くしかないと思います。

さて、

英国は冷静でしょうか。どうでしょうか。