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自民党新憲法草案を断固拒否します。 [政教分離]

■ 自民党新憲法草案を断固拒否します。
(2005年11月1日の日記から転載)

 先日、自民党新憲法草案が発表されました。いろいろ問題点はあるんでしょうが、9条は今は放っておいて、政教分離のところを考えてみます。9条は、その昔、原発を推進する側の人たちが事故の際の周辺住民避難などのマニュアルをまったく作っていなかったことを指さして「緊急時の対応が決まっていないのはおかしい」と言っていたのとほぼ同じ立場の(どっちかと言うとわたしのような)左の立場の人間が今度は逆に「緊急時のことなんて考えなくて良い」と言い張っているように思えて、面白いなあと思っています。たしか、原発推進派が同じ事を言っていなかったか。「原発は絶対に安全だから災害時の緊急マニュアルなんて必要ない」って。今回は平和主義に徹すべきだと主張する人たちが「平和主義に徹すれば軍隊なんて要らない。だから9条は変えてはいけない」的に言っている。いやこれは言い過ぎか。これは数年前の有事法制のときの違和感か。

 ‥‥とにかく今は9条の話は保留します。今の問題は20条と89条です。まず、現行憲法の条文と自民党案とを比較してみます。【 】で囲っているところが相違点です。

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◇第二〇条
■現行憲法
(1)信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
(2)何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
(3)国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。
■自民党案 (1)信教の自由は、何人に対しても保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
(2)何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
(3)国及び【公共団体】は、【社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超える】宗教教育その他【の宗教的活動であって、宗教的意義を有し、特定の宗教に対する援助、助長若しくは促進又は圧迫若しくは干渉となるようなものを行っては】ならない。
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◇第八九条
■現行憲法
公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない。
■自民党案
【(1)】 公金その他の公の財産は、【第二十条第三項の規定による制限を超えて、】宗教【的活動を行う】組織【又は】団体の使用、便益若しくは維持のため、【支出し、又はその利用に供してはならない。】又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない。
【(2) 公金その他の公の財産は、国若しくは公共団体の監督が及ばない慈善、教育若しくは博愛の事業に対して支出し、又はその利用に供してはならない。 】
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 このような案は、「社会的儀礼又は習俗的行為の範囲」が確定されない限り問題外だと思います。そしてその確定は不可能です。よっていきなり問題外です。

 政教分離をめぐる違憲訴訟では「社会的儀礼又は習俗的行為」とそうでないものとの線引きがまったく確定されていません。ころころころころ、まるで人の数ほどの判例が出現している現状下では、声や権限、またはネット上での字なんかの大きな誰かが「ココが確定的な線です」と主張すればそれで確定するような生易しいものではないのです。

 靖国神社への参拝は「社会的儀礼」でも「習俗的行為」でもない。靖国神社への参拝は歴とした宗教的活動です。「靖国神社への参拝は社会的儀礼であり習俗的行為の範囲を超える宗教的活動ではない!」とする主張は、かえって靖国神社への信仰に対する冒涜なのです。

 もちろんわたしは阿弥陀さま以外にわたしの救いはないことを偶然ながら知り得ているので靖国神社を信仰することはしません。しかし何が信仰や信心への冒涜なのかくらいはわかります。これは地方の神社にしても同様です。すべての神社への信仰は、すべてのお寺や教会で行われている信仰と同様、歴とした宗教的活動です。

 また、「無意識のうちにおこなっているからこれは宗教的信仰に基づいた行為でない」と主張するのはその人の勝手ですが、しかしその主張は「無意識の信仰も実は歴とした信仰である」という事実を無視した、事実と異なる主張に過ぎません。

 ちょっと考えればわかることを考えずにおいて無知の上に無知の屋上屋を重ね、あまつさえその無知に他者を従わせようとするのは暴力以外の何ものでもないと思います。

 つまり、宗教的信仰から(あるいは真宗では「信心」から)靖国神社に参拝しない・参拝したくない人がいる以上、靖国神社への参拝を単純に「社会的儀礼」または「習俗的行為」と規定することはできないんです。

 もちろん「亡くなった方を追悼するのは社会的儀礼です」あるいは「亡くなった方を追悼するのは習俗的行為です」と規定することはできると思います。しかし。

 追悼の場を靖国神社に限定し、それが全コクミンの一致した望みであると主張するのだとすれば、その主張は事実から大いに逸脱していると言わざるを得ない。

 これは、クニやその機関が追悼の場をどこどこの何々寺に規定することが不可能であるのと似てるんじゃないかと思います。クニやその機関の勝手で宗教をコロしてはならんのです。

 「事実がこうだったら良いな」と「事実がこうである」との間にはものすごい開きがあります。唯願無行ではダメなのです。

 こんな案を出す人を見るとき、わたしはまるで「青信号は進行可能、黄信号は停まれ、赤信号は進行不能」という現行法が自分の信条に合致しないからと言って「青信号は進行可能、黄信号は注意して進行せよ、赤信号はよくよく注意して進行せよ、たまに停止すべし」に変えよと主張する、そういう人を見る目で見てしまいます。まあ、わたしにどういうふうに見られようと関係ないです。変えようと主張する人が多くなればそのまま法律は変わってしまいます。それは情けない。

 だからわたしは、わたしにどういうふうに見られているのかを気にする人が増えるようにせいぜいはからうのみです。これから死ぬまでくたびれ続けてやる。

 ということで、以上、わかっていただけたと思いますがもう一度言いますと、わたしは自民党新憲法草案を断固拒否します。

(2005年11月1日の日記から転載)


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