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理解する能力のない小泉さん [政教分離]

巻頭言

 徳光さんから巨人と駅伝を取ったら何も残らない。
 小泉さんから理解能力を取ったら、すべてが残る。

 うちの国の首相が年頭記者会見でいろいろなことを語ったそうです。昨日の新聞報道を見て「郵便局はやっぱりわたしの町からばしばし消えていくんだなあ」との思いを新たにしながら年頭記者会見のEditな内容を読み、それでもやっぱりいちばん気になったのは靖国参拝についての首相の思い・思いこみでした。
 まず、その部分を引用してみます。

「一国の総理大臣が一政治家として、一国民として、戦没者に哀悼の念を持って二度と戦争を起こしてはいけないという気持で参拝することに、日本人からおかしいという批判が出ることは理解できない。」
(NHKオンライン http://www3.nhk.or.jp/news/2006/01/04/d20060104000072.html

「一国の首相が一国民として戦没者に哀悼の念をもって靖国参拝する。日本人からの批判は理解できない。精神の自由に、政治が関与することを嫌う知識人や言論人が批判することも理解できない。まして外国政府が心の問題にまで介入して、外交問題にしようとする姿勢も理解できない。心の問題は誰も侵すことのできない憲法に保障されたものだ。/ひとつの問題で、外交交渉はしないとか、首脳会談を開かないとか、理解できない」
(asahi.com http://www.asahi.com/politics/update/0104/006.html

「首相は「(首相の靖国参拝に)日本人から『おかしい』とか『いけない』という批判が(出るのが)、私には理解できない」とも語った。」
(読売新聞サイト http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20060104i104.htm

「首相は靖国神社参拝について「精神の自由、心の問題は誰も侵すことのできない憲法に保障されたものだ」と説明。「一国の首相が一国民として戦没者に哀悼の念を持って参拝することに日本人からおかしいとの批判が出るのはいまだに理解できない」とも述べた。」
(毎日新聞サイト http://www.mainichi-msn.co.jp/seiji/photojournal/news/20060104k0000e010057000c.html

 NHKのを使って考えていきます。

1.総理大臣と一国民
 まず問題だと思うのは、同じことをいろいろな言い方で表現しているつもりで、実は言い換えてしまっているところです。しかもその言い換えで内容が全然変わってしまうのに、話している本人はそれにまったく気付いていない。
 それは「一国の総理大臣が一政治家として、一国民として、」この部分です。

 「小泉さんは一国民である。」「小泉さんは首相である。」これはどちらも正しい。だから「小泉さんは一国民でありつつ首相でもある。」も正しい。しかし「小泉さんという首相は一国民がやれることは何でもやって良い。」というのは正しくありません。
 なぜなら、総理大臣というペルソナは単純な「一国民」とは全然違う役割を担っているからです。ですから、単純な「一国民」であればやって良いことでも、総理大臣であればやってはいけないことがある。
 ですから「一国の総理大臣が一政治家として、一国民として、」と、同じことをいろいろな言い方で表現しているつもりで、実は言い換えてしまって、一国民にできることだから総理大臣というクニの一機関もそれができる、というふうに装ってはいけません。

2.公式参拝
 (たぶん)単純な話です。
 クニの一機関である総理大臣は、一国民にはできる靖国参拝ができません。それは、政教は厳密に分離されるべきだからです。これはとても単純な話だと思います。(憲法で定めるまでもないと思う。)

 「首相の小泉さん」ではなく「単なる一国民である小泉さん」が靖国に参拝するのは、わたしはオッケーだと思います。それは人の嗜好です。わたしにはいかんともしがたい。(他人が煙草を吸うのは副流煙がこちらに来ない限り全然構わない、「きみも吸わなければならない」と言われない限り。同様に、他人が靖国に参拝するのは全然構わない。「きみも参拝しなければならない」と言われない限り、あるいは、「きみやきみの家族・近親者もまつられなければならない」と言われない限り、あるいは、わたし・わたしたちを代表する人が参拝しない限り。)
 実際には首相と一国民との間に物理的な溝はないので、小泉さんを首相と一国民に分けるのはとても難しい。(分けるとしたら署名や宛先の肩書きで分けるしかないんじゃないかと思う。)
 小泉さんが授業参観に行くとする。誰も「首相が学校の視察に来た」とは見ない。「一国民でもある小泉さんがお子さんの参観日にやってきた」と理解する。でも靖国参拝の場合、人は「宗教に関わることのできない首相小泉ではなく、一国民としての小泉が来た」とはなかなか見ない。(もちろんこれは小泉さんにも責任がある。最近はあまり主張しないが、ちょっと前まではずっと「首相小泉が靖国に参拝する」的に主張していた。)
 当然、伊勢神宮への参拝も「首相小泉」としておこなってはいけない。わたしはそう考えています。
 うちのお寺に小泉さんが来てポケットマネーで永代経懇志などをくださるのはオッケーです。領収書も出ます。しかし公費から支出して「首相小泉宛に領収証を切ってくれ」と言われたら、それはできません。
 宗教と「社会的儀礼又は習俗的行為」との境界線が不鮮明であり、かつ「特定の宗教に対する援助、助長若しくは促進又は圧迫若しくは干渉」に関して人それぞれの考え方があまりに多様に存在する現状であることを、もっと真剣に考える必要があると思います。

3.願いと結果
 よかれと思って(願って)したことでも、思いと裏腹な結果しか得られない場合があります。
 「戦没者に哀悼の念を持」つこと、「二度と戦争を起こしてはいけないという気持」を持つことは素晴らしく良いことであるとわたしは思います。
 しかし、首相が自分のペルソナを単純な一国民であると誤解したままで「戦没者に哀悼の念を持って二度と戦争を起こしてはいけないという」思いを新たにする場所が一宗教法人であれば、それは政教分離の問題を含みます。
 同様に、その場所が靖国神社であれば、明治から続く戦没者と仇討ちの「再生産装置」が再び機能することをこそ願っているのではないかとの危惧を呼び起こします。
 こういうのを「思いだけが空回りする」というのだと思う。

4.「理解できない」
 人が何かに接して「理解できない」と表明する場合、そこには二つの意味があります。一つは、本当に理解できなくて困っている場合。いま一つは、今後も絶対に理解したくないから「理解できない」と言って理解する努力を放棄すると宣言する場合です。(わたしは「理解できない」と言わず「わかんねー!」と言います。)
 小泉さんの今回の「理解できない」は「理解したくない」と同義であるんではないかなあと思います。これはつまり「わたしはあなたを理解するための努力をいっさいしません。あなたは持てる努力のすべてを総動員してわたしを理解し、わたしの言っていることをすべて是として受容しなければならない」とも同義であるように思えます。
 わたしは小泉さんの言ってることが十全には理解できません。しかし「理解できない」と言うだけ言って突っ放して、「あなたがわたしを理解すればそれで良い」ということはしません。いじめっこの論理みたいなねじ曲がった勧善懲悪は嫌いです。

0.いじめっこの論理
 いじめっこの論理というのはですね。たぶん本多勝一の『殺す側の論理』みたいなものです。
 学校で誰かがいじめられています。その様子を見ていた担任の先生がいじめられていた子どもを呼び出してこう言います。
 「おまえが悪い。おまえ一人が変われば、他のみんなはおまえをいじめなくなる。おまえが変われ。」
 これがいじめっこの論理です。いじめられっこ一人につき、全体数マイナス1のいじめっこがいます。そのすべてがこの論理で動いています。

 今日はこういう感じです。長いね。考えがあんまりまとまってません。
 ちょっと風邪っぽくて関節があちこち痛いです。
 いま特に痛いのは右臀部、右の腰骨のすぐ下あたりです。
 運動不足の筋肉痛もあるんだろうなあ。

 では、また。

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追記(1月5日 23:15)

 外国の複数の政府が小泉さんの靖国参拝に反対しています。それらの政府が反対している理由は、靖国神社にAクラス戦犯が「合祀」されているからです。
 つまりそれらの政府は靖国神社からAクラス戦犯が「分祀」されれば小泉さんが靖国神社に参拝しても(わたしがそう言うのではなくそれらのクニの政府が言うのですよ)良いと考えているということです。
 つまりそれらの政府とわたしとでは、小泉さんの靖国参拝に反対する理由が全然違ってます。わたしが問題にしているのは憲法云々以前の政教分離の問題なので、たとえ靖国神社からAクラス戦犯が「分祀」されても、小泉さんが首相として靖国神社に参拝するのには反対すると思います。
 その一方で、わたしは、靖国神社とは異なったスタイルの、特定の宗教から脱した、どんな特定宗教の色もない、今までの戦争の全犠牲者を悼むために彼らの名前を刻むなどした「平和の礎」みたいな施設がもしできるとしたら、そこにはAクラス戦犯の名前も当然ニホンの「負」の部分を代表する現象の一部として刻まれるべきなんであろうなあと考えています。
 また、靖国神社の場合、政教分離の問題がもちろんありつつ、他にも「クニのために頑張った人を顕彰してわたしたちも彼らの後に続いていこう!」的な雰囲気が漂っている気がします。それも首相の靖国参拝がいけないと思う理由です。
 クニのために頑張った人を顕彰する施設は、よくよく注意してやらないとアメリカのアーリントンのように戦死者の単なる万倍増装置にしかならないと思うからです。怨みと怨みが絡み合っていつまでも続く戦争がそこかしこにある。そういうところから脱却するための努力はしてもし過ぎることがないと思うのです。うっかり過ごしているとまったくしないで済ませてしまうと思うのです。


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