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キヴォーキアン博士、死去。 [生命学]

キヴォーキアン博士が亡くなられたそうです。

末期病患者の自殺装置を開発した”ドクター・デス”こと、ジャック・ケヴォーキアンが死去!
http://www.cinematoday.jp/page/N0032826
2011年6月4日 7時00分

 [シネマトゥデイ映画ニュース] アメリカの病理学者で、末期病患者の積極的安楽死のために自殺装置を開発した”ドクター・デス”こと、ジャック・ケヴォーキアンがミシガン州にあるボーモント病院で肺血栓塞栓症で亡くなったことがガーディアン紙によって明らかになった。

 ジャック・ケヴォーキアンは、1928年ミシガン州でアルメニア移民の子として生まれ、ミシガン大学を卒業後にデトロイトの病院で病理担当医師として活動し始めた。その後、安楽死の研究を開始して、数々のカウンセリングの経てたうえで末期病患者の自殺幇助のための自殺装置を開発。1990~1999年の間におよそ130人もの末期病患者の自殺幇助を行った。

 だが、1998年の11月にCBSの番組「60ミニッツ」で自殺装置で死亡させたことを記録したテープが放送され、アメリカ中で物議を醸し出した。これがもとで、放映直後に第一級殺人罪(後に第2級殺人罪に変更)で告訴され、結果10~25の不定期刑とする有罪判決が下り、2007年に仮釈放されるまで刑務所に収監されていた。

 ちなみに、2010年には『レインマン』のバリー・レヴィンソン監督が、アル・パチーノ主演でケヴォーキアンの半生を描いた映画『死を処方する男 ジャック・ケヴォーキアンの真実』を制作し、チャンネルHBOで放送された。 かなり世間を騒がせた人物ではあるが、ご冥福をお祈りしたい。 (細木信宏/Nobuhiro Hosoki)

(最後の一言が余計だ。キリスト教徒だったら冥土になど絶対に行かないぞ。)

北海道新聞のテレビ欄のウラにも同じニュースが出てました。
わたしにはリアル・ドクター・キリコのイメージです。
いろんなことを考えさせてくれた方です。かつて書いた論文にも登場しました。

「「脳死」臓器移植入門 生命倫理学の前線」
(『真宗研究会紀要』第33号 2001年3月)
http://www004.upp.so-net.ne.jp/chishu/ronron/kiyo/kiyo.html
(三の2.「自己決定[権]」に出てきます)

10年前のわたしもいろいろ頑張ってるが、でも、これはエッセイであって論文ではないなあ。(^_^;)

パターナリズムと自己決定を部分否定した上で何かを言おうとして、でも明確には言えなかったようだ。というか、たぶん本来は別々に論じるべき「自己決定」と「自己決定権」とを面倒くさがって(自分の論理に自信がなくて)論じてないところとか、不徹底きわまりないと思う。

ともかくいろいろなことを投げかけてくれた方です。

安楽死・尊厳死についてはその後出た

中島みち『「尊厳死」に尊厳はあるか』岩波新書 2007年9月
http://www.bk1.jp/product/02922736

が問題を引き継いで考えてくれていると思います。

なお、註に出てくる「ハードウィッグ」という人は「死の義務」を言う人です。(三の2.の直後、三の3.「死の義務」に(わたしなりの)紹介が出てきます。端折りすぎな気がします。)

伝道院で学んでいたとき、「脳死臓器移植」というタイトルで全然違う内容の講義をされてすごくがっかりさせられたことがあるんですけども、そのとき「講師」だった臓器移植の非専門家が細胞について3時間語りまくって、最後の方で「アポトーシス」から臓器移植を語っていました。

個人的には反吐が出そうな非論理な感情論でしたが、アレの原形がココにあるのかもしれない、というか、アポトーシスで人間社会の死を語ろうとするところからハードウィッグの「論理」が出てきてるのかもしれない。

そのときの「講師」の人いわく、「死ぬべき人が死ぬことで他の人が生きる」。まさに医殺であり死の義務の非論理であったなあと思います。

それにしても、そのアル・パチーノのテレビドラマは見てみたいです。ただ、まあ、どんなもんなのか、大変に不安です。

では。

イカ、その論文の部分引用でゲソ。
2.自己決定[権]

 「自己決定[権]」は死を早める方向に拘束された論理であり、生の方向に開けた論理ではない。
 この国で「脳死」臓器移植が法的に解禁された背景に存在しているのが「自己決定[権]」である。これは単純に「自分のことを自分で決める権利」として理解されがちだが、実はそのように簡潔に自己閉塞して済む問題ではない。
 まず「自分のこと」とは何か。自分が他人の一部を他人と共有していることを否定できない以上(17)、自分の一部も他人に共有されていると考えるべきである。ならば「自分のこと」が何を指すのかは自明なものではなくなるのではないか。また、今生きている「自分」は様々なものの影響を受けて今の自分になっているわけであるから、自分が下す決定は果たして自分だけの決定と言えるのか、それも自明ではなくなってくる。自分の決定は人間関係や環境など、自分の外にあるものの影響を受けざるを得ないのではないか。
 ということは、自分の死を「脳死」であると決めること自体は許されぬ行為ではないだろうが、自分の死を自分だけのものであると「自己決定」することは本質的に不可能なのではないか(18)
 「自己決定[権]」の思想や論理を延長したところに、オランダなどで合法的に実施されている「安楽死」(19)という問題がある。オランダで行われている「安楽死」は死にゆく個人で完結したものとして捉えられているが、以上の内容を見るに、そのような捉え方は不可能となるのではないか。
 また、死の「自己決定[権]」は、「脳死」や「安楽死」など、死を早める方向でしか認められていない(20)。たとえ「わたしはわたしの死を心臓停止から一年後に自己決定する」と主張してもそれは到底認められない(21)。つまり、死の「自己決定[権]」は死を早める方向に拘束されているのだ。
 それを示す好適な例がジャック・キヴォーキアン(Jack Kevorkian)の主張である。
 19「99年現在で七一歳になる」ジャック・キヴォーキアンは、「1990年6月のアルツハイマー病の男性を皮切りに、130人以上の自殺を幇助し、「ドクター・デス」として畏怖されてきた」医師である。
 彼は「他人に殺されることを望んでいる者、病気に罹っているわけではないが死を決意した者で自力で自殺を実行できない者、胎児や無脳児などの本人の意思確認が不可能な者など」を「医殺(medicide)」すべきであると主張する(22)
 「キヴォーキアンによれば、脳死者には意識があることが分かっていながら、自己決定権のもとに臓器を取り出すといった残虐なことを、アメリカでは日常的に行っている。自己決定権が正当なものだとするなら、医学利用の対象を臓器提供に限定する必然性はない」(23)。彼はそれを以て死刑囚の死体や「脳死」者の身体を各種検査や実験、臓器工場、代理母出産などに利用する道を開こうとしている。
 私には彼の主張を受け入れることはできないが、彼の主張が「自己決定[権]」を基礎として成立していることには疑いの余地がない。今更パターナリズムに完全回帰することは不可能だが、しかし「自己決定[権]」だけを金科玉条にして生命倫理学的な事物の全てに対処しようとするのも不可能である。
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(17)  他人の死が時に悲しく感じられるのは、その死によって自分の携えている記憶や思い出など、自分がその人と共有していたものの一部がその人に持って行かれてしまうからではないだろうか。
 人間の存在は即物的に捉えて捉え尽せるものではない。人間が肉体的なも面だけでなく精神的な面をも含めて成立している現象である以上、物質的な距離だけを根拠に「自分」を限定的に捉えるのは正確とは言えないのではないだろうか。
(18)  近親者のものだと言いたいわけでも社会全体のものだと言いたいわけでもない。そのような考え方は「だから「脳死」した者の身体は家族(or 国家)の財産である。よってそれをどう処分するのも家族(or 政府)の意のままである」などの極論に走りやすい。
 個人の死をその個人に閉塞させるのも、その個人と他者との関係の中に還元し尽くしてしまうのも、わたしにはどちらも受容しがたい。恐らくその間に何かあると思うのだが、何があるのか、まだ正確には解っていない。
(19)  積極的安楽死。これに対し「尊厳死」は「消極的安楽死」に含まれる。
(20)  心臓死を自己の死亡であると積極的に「自己決定」する必要はない。「自己決定」する必要があるのは自分の死亡を心臓死よりも早めようとする場合だけである。
(21)  「三」の「1.」に登場した集団の主張が認められなかったことからもそれは判然としている。
(22)  キヴォーキアンやハードウィッグ・「脳死」臓器移植・「安楽死」・「尊厳死」などと「自己決定[権]」との関連については、小松美彦「「自己決定権」の道ゆき―「死の義務」の登場(上)(下)―生命倫理学の転成のために―」(岩波書店『思想』2000年2月号(908)、2000年3月号(909))が詳しい。
(23)  小松美彦『黄昏の哲学 脳死臓器移植・原発・ダイオキシン』河出書房新社 2000年10月20日 95頁
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「「脳死」臓器移植入門 生命倫理学の前線」
(『真宗研究会紀要』第33号 2001年3月)
http://www004.upp.so-net.ne.jp/chishu/ronron/kiyo/kiyo.html

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