SSブログ

2005年7月1日 [伝道院(2005前期)]

 午前中は「僧侶に望むこと」という内容のタイトルで講義を受けました。講師の先生、いろいろな話をされました。恐らくその主題は最後の方で先生ご自身が強調されていた「身近な人の〈不幸〉や、身近な人の〈死〉に直面したときわたしたちは言葉を、行動を、いろいろなものを失い、立ち止まってしまう。だがその〈不幸〉や〈死〉に何らかの意味づけを行えば、人はその死を乗り越えることが出来る」ということだったのではないかと思います。

 正しいんじゃないかと思います。

 でもひどく残念です。

 まず、必要っぽい例として引かれた実際の〈不幸〉は必要不可欠な例ではありませんでしたし、絶対的な不幸でもありませんでした。だからそうやって絶対的な不幸のように語らない方が良いんじゃなかろうか。また、その解決の仕方として先生が問題になさっていた「神が‥‥」ということは問題ではないと思いました。さらに、その不幸を不幸と決めつけるところからその夫婦は脱却できたから不幸ではなくなったのじゃないかと思いました。それはその〈不幸〉を奥さんのとある言葉が先生の言うやり方で生の中に意味づけた、というのではなく、先生が思っても見ない、気づけることのない別のやり方で〈そのまま〉転じたと取る方が良いのではないかとも思いました。

 また、引かれた〈死〉も劇的な、ジャーナリスティックな事件・事故に関わる〈死〉であることが多かったのもどうかと思いました。ある例は、先生によると、裁判で勝つことが唯一の意味づけになってしまっていて、その理解はちょっとお粗末すぎると思いました。

 「こういう話はいくらでもあるんです!」とおっしゃってました。それはそうでしょう、人間の数だけ死があるわけだし、それを上回る数の不幸があるわけですから。それならば別に新聞に載るほど「悪い」ものを引く必要はないだろう。もちろん、たくさん紹介する意味もないだろう。人の死をたくさんならべて一体何をどうするのか。主張一つに例ばかり並べてまるで小林よしのりだ。効果的な場合もあるけれどそうでない場合もいっぱいある。

 ある人が「人間みんな死ぬんです」と言うときに、たくさんの死を例として引く。紹介される悲惨な例には、誰もが心奪われて涙するかも知れない。しかし、もしその人が「みんな死ぬ」の「みんな」に「自分」という現象を重ね含めて考えているのでなければ、引用される死そのものには意味があるにも拘わらず、その引用行為にはまったく意味がない。

 今日の先生の場合で言えば、「こういう話はいくらでもあるんです!」と言った、その「こういう話」に自分という現象にまつわる交換不可能な不幸や死は含まれているのかどうか。わたしには、まったく含まれていないように思えてならなかった。

 死も不幸も、一つだけをじっくり見つめて考えて、深いところで味わって寄り添っていけば良いじゃないか。というか、それしかできないでしょ、我々第三者的な立場の人間には。 ‥‥ と思いました。あんまり引き方が無責任すぎて、興味本位すぎて、非常に失礼に感じました。

 ‥‥と思いながら、無茶苦茶不満に思いながら聞いていたら、「アメリカの医療は日本の医療より良い!」という内容のことをおっしゃいました。わたしはそれで「あ、これは駄目だ」と確信せざるを得ませんでした。なぜ駄目だと思ったかと言うと、アメリカの医療というのは、盲腸の手術を受けた人が即日退院しなければならないほど保険が駄目だし、『ER』でもよく問題にしているように皆保険じゃないから十分な医療を受けられない人も決して少なくないらしい、そういう医療であることを知っているからです。臓器移植なんてその最たるもんで、お金持ちしか受けられない医療行為の代表である。また、問題にすべきところを問題にせずさらりと流して不完全極まりないパーソン論や功利主義的思考法をよりどころとして明後日の方向に進んでいる医療でもある。 ‥‥ そういう医療を絶対的な善として位置付けようとする、先生のその思考って何なの。

 「まったくまったく乱暴で危ないことをいう人だなあ」と思って諦めていたら、「臓器移植もそうだ!」という内容のこともおっしゃいました。こりゃぁ本当に駄目です。つづめて言えば、日本で子どもの心臓移植が出来ずにアメリカに渡るのは、日本がアメリカほどすばらしくないからなんだそうです。「アメリカが日本より乱暴なことをやっているからに過ぎない」という判断はなぜ下されないのでしょう。まあそのように判断するのは難しかったり度肝を抜いたりするもんですからそう判断できないのは仕方ないとしても、でも、実際にはどうなのか、ならびにどうすべきなのかを、表面的な知識で語り尽くせると考えてしまう、その判断って一体どういうことなの。むっちゃくちゃ怠惰。

 この先生は西日本中で講演会をされているんだそうですが、わたしなりに総括すると、聞くべき話ではありません。ジャーナリスティックな話題に飛びつきやすく、実際がどうなのかをよく調べず考えず、新聞・雑誌の感想や茶飲み話の水準で「真実」を語ることができると勘違いしたまま、ものごとをほとんど考えずに直感だけで決めつけて、新たな事実に気付いても一切更新せぬまま大きな声で喋り続ける、そういう人にしか思えません。話題として選択された事件・事故・不幸・死が興味深いことは認めます。しかし、それをただ単なる「ネタ」の水準におとしめて満足するってのは一体どうなの。わたしにはそのような態度は非常に失礼なものに思えます。

 突然大声で叫ぶのも大嫌いでした。音の効果を考えておられたのかもしれませんがはっきり言って逆効果でした。たぶんわたしらの何人かが眠りながら聞いていたから腹立って起こそうと思ってそのようにされたのだろうと思います。でもわたしは聞いているのですよ。聞いている人間の聞く気を削いでどうするつもりなのか。わたしにも聞く気をなくして眠れと言うのか。

 ‥‥という午前中の講義でした。悪口ばっかりですね、わたし。良かったところがなかったのかどうかと言いますと、 ‥‥ なかったです。皆無でした。

 お昼ご飯の後は、先日実施された布教実習の会計報告会でした。各班ごとにじっくり時間をかけてやったので、21班中19番目だったわたしの班の順番が来たのは18:00でした。

 夜はヒロシマから友だちが出てきた、というか戻ってきたので一緒に飲みました。いつ行けるかわからないので18:30開始の予定をしていたら、もっと遅くなりました。三十分くらい遅刻。申し訳ありません。この世に携帯があって良かった。友だちの友だちも来ました。「押して駄目なら」という話で、わたしは当然「引く」と思ったのに、友だちたちは「押し倒す」と言ってはばからない。おかしいな? 俺には押し倒す選択肢は許されなかったのにな? と思って気付いたことには、友だちたちは女の子たちなのでした。だからそれが許されるんですね。「俺はどんだけ好きでも押し倒せないな。見込みがないのに間違って引いてしまって、ヒトから見ればあたりまえの結果に、でも自分としては大失敗!したこともあるなあ。良いねきみらは押し倒すことができて」「あなたがやったらそれは単に強姦です。押し倒しちゃだめです」とのことでした。なるほど、選択肢になくて大正解だったのですね。なお、話しぶりからは両方ともそういう(押し倒す)経験があるようでした。

 久しぶりに日本酒をたっぷり飲んで、かなり酔ってしまいました。どのくらい酔ったかと言うと、カラオケで気分がでかくなってほとんどおごってしまったり、帰りに駅から2キロくらい一人で歩いたんだけど全然苦にならなかったり、です。


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0