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(いずれふくらます予定の)返信。 [時事ネタ系]

(前略)

宗教の寛容性というのは、わたしにもよくわかりません。
以前、龍大の院生だったときに
同じく龍大の院生の、でも右系の人とシンポジウムで意見交換をしたとき
またはその後の打ち上げの飲み会で意見交換したときに見えたのは、
靖国参拝バンザイな人からしてみれば、わたしのような考え方の者が
「靖国に首相が公式に参拝してはいけない!」
と発言することこそが宗教的な「非寛容」であると理解されてるらしい、
という事実?のようなものでした。
「石田さんあなたも日本の国民なんですから
 クニの一機関(首相)がする行為に対して寛容になりましょうよ」、的な。
(もちろんこんなふうに言われたわけではありませんが。
 ただこのような考え方をしてるんではないかなあと思いました。)

根本として考えてるモノが違う。
首相がわたしに対して寛容になるべきなのであって
わたしが首相に対して寛容になるべきなのではないと思う。

わたしは、わたしを基本として考えます。
わたしつまりコクミンが基本。
宗教的なそれであれ何のジャンルにおけるものであれ
国家と個人との間で「寛容」を語る際には
クニの機関がコクミンの行為その他に対して寛容であるべきなのであって
コクミンがクニの機関の時に高圧的なやり方に対して寛容であるべきなのではない、
と、わたしは考えています。
でも、そうは考えない人が圧倒的に多くなってきてる、
‥‥ような気がします(データ的には無根拠)。

たくさんの宗教がにょきにょきたくさん育つ。
それに対して国家が寛容であるべきなのであって、
たった一つの追悼方式だけを優先して行う、
そんなクニの一機関の行為に対して一般人よ寛容であれ!と言うのは
ちょっと「寛容」の意味が違うと思います。

「寛容」を一応広辞苑でしらべたら
(1)寛大で、よく人をゆるし受けいれること。咎めだてしないこと。「―の精神」
「―な態度をとる」
(2)他人の罪過をきびしく責めないというキリスト教の重要な徳目。
(3)異端的な少数意見発表の自由を認め、そうした意見の人を差別待遇しないこ
と。

とありました。やっぱり「大きなものにまかれること」とは異質です。

大きなものが小さなものに向かって
「大きなものにまかれなさい! 
 多少自分と違うからって、それが何んです!
 みんなと一緒にしなさい!
 ちなみにこの「みんな」というのは私が決めます!
 そのことまで含めて! それが寛容です!
 寛容になりなさい!」
というときの「寛容」は、寛容とは違うと思います。

「多数派の意見に絶対に従え!」と
「寛容になりなさい!」とは違うと思います。
いや「多数派」ですらないかもしれません。
そのように信じられているモノ、くらいかも。

中心をどこに置くのか。それが問題なんだと思います。

もう少し考えてみます。
ちょうど靖国問題に関してさまざまに
イライラしてるところなので速く書けるかも知れませんが、

でも今日は眠ります。

まるさん本当にありがとうございます。


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