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靖国関係。 [政教分離]

 木村さんという先輩がブログをやっています。真宗の信心に関しても、臓器移植に関しても、時事ネタに関しても、多くの場合わたしとは異なった見解を述べられることが少なくないので、自分の意見をまとめるときに参考にさせていただくこともある、そういう先輩でもあります。
 【木村さんのブログ】

 その先輩が靖国神社への参拝に関する私見をブログ上で述べておられました。↑上のようなことがある先輩ではあるけれど、それでもあまりにヘンな気がしたので、堪えきれずにコメントを寄せました。

 今日見たら、わたしのコメントに対する返信をブログ本文として書いてくださっていました。

 ありがとうございます。

 でも、ところどころに事実誤認や無理解があって、やはり今回もすごく残念なことになっていました。

 どのように残念であるのかも含めて、コメントを寄せさせていただきます。以下は引用部以外、先輩のブログに返信として投稿したのと同じ内容です。

■(1) 政教分離について

(1) 現代日本において基本的に厳密な意味での政教分離はありえない。
・・・お寺も神社も国家の「宗教法人法」下で運営されている以上、すでに政教一致です。こういう議論をする以前に、いかなる事象を以って政治と宗教とが【分離なのか、一致なのか】の定義をせねばなりませんが、宗教法人にとって都合のいい点では無意識的に政教一致を受け入れ、都合が悪くなると政教分離を叫んでいるだけのように思います。定義不可分な以上、分離・一致は状況を鑑みて議論・判断せざるを得ないでしょう。

 木村さんは

> お寺も神社も国家の「宗教法人法」下で運営されている以上、すでに政教一致です。

 と書いておられますが、それはつまり「国家の中に宗教があり、国家の法律で宗教団体について規定し、その運営形態等についても一定の規定がある以上、これは政教一致と言うのである」というご意見だということでしょうか。
 まさかそんなことが仰有りたいのではないのではないかと思うのですが、でもそのようにしか読めないのでこの理解でいかせてもらうしかない。
 だとすれば、木村さんのそのような認識は事実誤認に基づいていることを指摘させていただくほかありません。
 国家の法律が宗教法人がどういうものであるかを規定したり、その法律を宗教法人が身の振り方のための一定の参考にしたりすることを捉えて政教一致というのではないからです。

 政教分離とはどういうことか。

 それは“国家の政治とある特定の一宗教とが相互に密接な関係にならない”ということです(というかどうしてこんなあまりに基本的すぎる内容のレクチャをわたしがしなければならないのかよくわかりませんが、続けます)。

 政教一致というのは、たとえば、真宗というある特定の一宗教が国家護持に躍起になるかわりに、国家の政治が真宗というある特定の一宗教の護持発展に躍起になる。そういうことを指します。

 そのようなことにならないというのが、政教分離です。その目的は、個々人の信教の自由を完全に保証することです。

 政教分離について、『広辞苑』にもこのようにあります。

信教の自由を保障するために、政治と宗教が相互に介入し合うことを禁止すること。日本国憲法は厳格な政教分離の原則を採用し、国や地方公共団体が特定の宗教に特権を与えたり、財政的援助を供与したり、自ら宗教的活動を行なったりすることを禁止(20条・89条)。

 このようにあります。

 今の日本ではお金がものをいうことが多いので、勢い、財政的援助が問題となってくるわけです。

 なお、現在京都では東西両本願寺で御影堂[西:ごえいどう、東:みえいどう]の修復が行われていまして、それに対し国家的財政から多額の援助が出ています。
 「それって財政的援助じゃないのか?」
 微妙に違います。
 クニはわたしら本願寺教団に援助してるんではありません。本願寺教団が結果として現在保持することになっている日本の国家的な財産(文化財)を保護するためにお金を出しているのです。
 ‥‥確かめたわけではないけど、そういうことなんだろうと思います。

 なお、公明党が国政に参加しているのは何の問題もありません。政教がキッチリ分離しているからこそああいうことが起こるわけです。

> 宗教法人にとって都合のいい点では無意識的に政教一致を受け入れ、都合が悪くなると政教分離を叫んでいるだけのように思います。

 政教分離は以上のような内容ですので、いつまでもそう思っておられても構いませんけれど、事実とは全然違うということを指摘させていただきます。また、「分離・一致は状況を鑑みて議論・判断せざるを得ないでしょう。」とのことですが、それで、木村さんはこの状況を見て、一体どのように議論したり判断したりされるのでしょうか。

■(2) 公式参拝について

(2) 首相クラスの参拝行為は政治活動に該当するか、否か。
・・・小泉・安倍が主張するように、本来参拝行動は個人の思想信条の自由によるもので、政治的な意図とは無関係です。しかし第三者より見ると政治的意図があるように見えるのは当然で、そう見えた以上、公人として参拝を控えるのも当然だと思います。これは法律的・宗教的に問題がある・無いという視点ではなく、首相らのモラルの問題として捉えて欲しいと思います。

 公人が「政治的な意図」をもって靖国神社に参拝するなど言語道断です。そこには政教を一致させようとの「政治的意図」しかないことが明らかだからです。そのようなことをする公人には、個人的には公人の風上にいてほしくありません。

 なお、いま問題となっているのは「政治的な意図」の有無ではありません。公人が一宗教法人に対し公人として参拝している・参拝しようとしている、そのことが問題なのです。政治的意図は関係ありません。その行為が意図と関係なく政治的行為になっている、そこが問題なのです。

 首相である小泉さんが靖国神社に「個人」的に参拝するのは構いません。そのときの条件は、私費・私用車・私的時間・個人的署名です。でも公費・公用車・公的時間・公人的署名では公人扱いになります。それはいけません。でも公用車しか持ってないならそれは仕方ないことになりましょうか。でもタクシーで私費で行けば良いと思います。(「でも」三連発)

 最近の小泉さんは私費で私的時間を利用した私的参拝であるにも拘わらず「首相小泉」と署名されてるそうですね。中途半端で何とも。

> これは法律的・宗教的に問題がある・無いという視点ではなく、首相らのモラルの問題として捉えて欲しいと思います。

 いや、実際に「法律的・宗教的に問題がある」のですよ。だから問題にしているのです。個人のモラルで片付けられるものではないのです。

■(3) 非宗教法人化

(3) 麻生外相らの「靖国神社の非宗教法人化の提唱」について・・・麻生氏はかなり頭の悪い人だと思いました。そしてこれこそが政教分離の原則を無視した暴論であります。政治的に都合の悪いものは宗教法人格を外す、こんなバカな話はありません。外見だけを取り繕ってA級戦犯はそのままでいいという考え方で、話になりません。これに関しては強く政教分離の徹底を求めます。

 麻生さんは首相になる気が一切ないのですよ。そのように判断せざるをえません。実現不可能ですから。本気で言ってるわけではないと思います。首相に立候補するかも知れないが本気ではありませんという意思表示だとわたしは理解しています。(本気だとしたら完全にアホだと思います。)

 なお、麻生さんは8月8日の会見で「私は基本的にこれまで地鎮祭やら何やらを見た上で、あれは宗教だという裁判はこれまで何回も行われたと思いますが、いずれも宗教というものではないという結論を既に地裁で出しておられて、答は出ているのです。」と仰有ってるので、やっぱり政教分離について本当にわかってないんだなあとの思いを新たにしています。

 また、麻生さんはAクラス戦犯は分祀せよとの考え方を示しておられます。ということで、木村さんの基本線での事実誤認を指摘させていただきます。
 【毎日新聞のニュース・8月5日より】

 あと、木村さん、政教分離についてもう少し理解を深めてからにしてください。どこをどう捉えて「原則」と言っているのか、ちっともわかりません。

> 政治的に都合の悪いものは宗教法人格を外す、こんなバカな話はありません。

 ほんの百年前にやったのと同じことをしようとしてます。
 というか、自民党がずっと昔に靖国神社を宗教法人じゃなくそうとして画策したことがありました。麻生さんの話を受けてそのときの想い出を語っておられる政治家も何人かあるようですが、つまり、彼の言葉を借りれば「答えは出ている」のです。

 ともかく麻生さんは無視で良いと思います。そのへん木村さんと一致です。

■(4) 無宗教の国立追悼施設

(4) 無宗教の国立追悼施設建設について
・・・追悼とは、立派な宗教行為です。これ以上国家が国民の宗教感情をコトロールしてどうするのでしょうか??これもバカげた話です。

> 追悼は立派な宗教行為です

 その通りです。これも木村さんと一致です。

 しかし、国立の、無宗教の追悼施設を作るというのは、「無宗教」での追悼を我々に強いるということではありません。

 また基本的なことをレクチャすることになってしまいますが、無宗教の追悼施設をクニが作ることには大変意義があります。その理由は、逆説みたく聞こえるかもしれませんが、無宗教の追悼施設はどんな宗教の追悼行為をも受容することができるからです。

 それぞれの宗教で、思い思いに追悼すれば良い。
 一律に黙祷する必要もないのです。
 画一的な方法でなければみんなで追悼したことにならないのか? そんなことはないわけです。
 それが多宗教国家・日本での、あの戦争に対する追悼の、もっとも健全なやり方であるとわたしは思っています。

 追悼が「立派な宗教行為」であるからと言って、ある特定のやり方でやらなければ(たとえば仏教的合掌礼拝とか、たとえば神道的拝礼とか)いけない、ということは、まったくないのです。

■(5) 靖国神社について

(5) 靖国神社の特異性を考慮すべきでは?・・・靖国は戦後の法律下において宗教法人化されているので、一般の寺院や個々の宗教団体と扱いは等しくあるべきものです。
しかし、靖国は大日本帝国憲法下の国家体制の思想のもと、戦争にひきずりこまれた戦没者の苦しみ・辛さを純粋に追悼する(顕彰するのは一部の右翼・ウヨクのみ)施設です。つまり264万人の戦没者は戦後の靖国のあり方やスタンスを知らされずに亡くなっていったわけです。帝国憲法の解釈では国家=神道、宗教=神道です。要するに戦前の文脈では【政教一致】なわけですよね?戦没者が意見を述べられない以上、建前として国家は必要悪としてでも戦前の文脈を重視しなければならない、と私は考えます。天皇陛下にも参拝いただく、これ当たり前です。ゆえに特例として靖国神社は国家が丁重なる態度で臨まねばならないと思います。ただし、政治家が他意を含んで意図的に参拝することだけは目を光らせねばならないでしょう。

 木村さん。
 先ほど読んだ文章には『靖国問題』について「あれはベスト靖国本ですね。痛快ですらありました。」とあったわけですが、少なくとも高橋の意見について大部分は反対の立場でいらっしゃるようですね。ではどのように考えているのか。それを示してくだささるとうれしいです。

> 要するに戦前の文脈では【政教一致】なわけですよね?

 すみません、何が「要するに」でつながってるのかまったくわかりません。もう少し文脈を判然とさせてください。

> 天皇陛下にも参拝いただく、これ当たり前です。

 「当たり前です」では何も言ってないのと同じです。どうして「当たり前」だと考えるのか、それをこそお示しください。

■(6) 真宗教団連合の活動について

(6) 真宗教団連合による、小泉参拝の中止を求める声明について・・・これは、宗教界からの政治への干渉(政教一致)です。どんな立場から参拝中止など要請できるのでしょうか?個人の思想信条の自由を犯すものでもあるのでは?念仏者は念仏者のスタンスで私の心を見つめるべきではないでしょうか?さらにいえば、サヨク的真宗僧侶は仏法の論理よりも法律的に問題があるとかいいなさる。世俗的(法律)なものを持ち出して戦うのはどうなんでしょうか? 人様の行動に文句をつける前に、念仏者としての追悼のあり方をアピールし、平和への取り組みをすすめるべきだと思います。

> どんな立場から参拝中止など要請できるのでしょうか? > 個人の思想信条の自由を犯すものでもあるのでは?

 拙文(1) を熟読してください。と言うか、政教分離についてもう少し理解を深めてください。高橋も良いですし、『ジュリスト』の『憲法判例百選』もとても良いと思います。

> 念仏者は念仏者のスタンスで私の心を見つめるべきではないでしょうか?

 何がおっしゃりたいのでしょう。念仏者は政治にクチを出すなということでしょうか。何を根拠にそう考えているのかわかりませんが、もしそのように考えておられるのでしたら、まず木村さん自身がクチをつぐむはずなので、そうではないと思います。
 ということは一体どういうことなのか。よくわかりません。どのようなことがおっしゃりたいのか、今一度お示しください。

 なお、ガルトゥングなどの提唱する「平和学」、それに伴う「構造的暴力」という問題もよくよく考えてみるべきだと思います。
 永代にわたってこの場所で人が阿弥陀さまの徳を讃嘆していくことはとても難しい、有難いことだ。しかし自分には会い難き法が向こうから遇いに来てくれて、それでわたしは遇うことができた
 仏法が自分にまで相続されてきた以上、わたしだけがこれを味わって終わりにするのでは勿体ない。いけない。これからも相続されなければならないとわたしは思います。そのためには、この世が平和であらねばならない。そのために、わたしはいま何をすれば良いか

 それをわたしは考え行動しようと思っています。

> さらにいえば、サヨク的真宗僧侶は仏法の論理よりも法律的に問題があるとかいいなさる。世俗的(法律)なものを持ち出して戦うのはどうなんでしょうか? 人様の行動に文句をつける前に、念仏者としての追悼のあり方をアピールし、平和への取り組みをすすめるべきだと思います。

 怒りとあざけりに満ちた文章のように読めます。サヨク的真宗僧侶? それはひょっとして、わたしのこと? (^_^;)

 まあ何であれ。(違うと思いたい)

 真宗の救いは、自分こそが救われなければ阿弥陀さまの救いに何の意味もないということを知らされることがすべてだと思うんです。

 ソコから見れば、「世俗的(法律)なものを持ち出して戦うのはどうなんでしょうか?」というのは、問題になりません。法律に問題があるのは仏法と関係ないからです。だからこそ、法律を持ち出して闘うこともできるし、法律に問題があると言って闘うことも出来る。

 法律の問題点を仏法的に指摘しようとすることもある意味では大切だけど、仏とともにあるわたし・阿弥陀さまから照らされて自分の影の黒さに気付かされたわたし、それだけが問題であることがわかってくる。しかしその問題は、真に問題となると同時に解決されてしまう種類の問題です。

 さて、そこから翻ってこの世を見ると、なんと問題の多いことか。

 そのような問題を解こうとするのは、わたしの生理的欲求に近いものがあります。お節介でしょうか。そうでしょう。しかしお節介が世界をつないでいるのも厳然たる事実なのです。

> 人様の行動に文句をつける前に、念仏者としての追悼のあり方をアピールし、平和への取り組みをすすめるべきだと思います。

 木村さん。そのようになさってください。

 ただわたしは木村さんのように「人様の行動に文句をつける前に」ではなく、「人様の行動に文句をつけ」つつ、そのようにしていきます。

■(7) 「政治家たれ」?

(7) 最後に、僧侶が政治のことに口出ししたいのならば、先ずは政治家になるべきである。 僧侶は僧侶のスタンスを貫き、独自の価値観を世に発信すべきである。サヨク僧侶は【真俗二諦(宗教と政治における真理観は別だとの考え)】を批判しますが、それはつまり【政教分離】を批判するということになるのだ、との矛盾に気付いていない・・・。法華経信者のように真宗も立正安国を目指すのでしょうか?

> 僧侶は僧侶のスタンスを貫き、独自の価値観を世に発信すべきである。

 そうなのですか。それは具体的にどういうことをするということなのでしょうか。

> サヨク僧侶は【真俗二諦(宗教と政治における真理観は別だとの考え)】を批判しますが、それはつまり【政教分離】を批判するということになるのだ、との矛盾に気付いていない・・・。

 残念ながら、木村さんは政教分離がまったくわかっていませんから、この文章の意味がわかっていません。真俗二諦と政教分離を持ち出して、最終的に何をおっしゃりたいのでしょうか。お示しください。

■以上。

■なお、「マルイチ」「マルニ」等は機種依存文字なので、(1)、(2)等に変更しました。

(2006年8月12日 17:50 タグ変更)

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コメント 2

Bar

はじめて読みました。

理路整然としていて読み応えがありました。宗教者の方からこういう意見を聞けるのはとても希有で、ためになりました。

これからもあまり熱くならない範囲でがんばってください!(←失礼かも)
by Bar (2006-08-19 06:58) 

chishu

ありがとうございます。
‥‥いや失礼じゃないです。そうですね。誰からも頼まれてないのに熱くなって、すごく迷惑なところが多い奴だと思います。困った性質です。なんとかしたいです。もう少し遊びとか楽しさとか、そういうのをちりばめたいです。
by chishu (2006-08-20 00:44) 

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