SSブログ

なかなか良いのだけど。 [政教分離]

 今日も断続的に稲垣久和『靖国神社「解放」論』光文社ペーパーバックスを読んでいます。

靖国神社「解放」論  Yasukuni and Public Philosophy

靖国神社「解放」論 Yasukuni and Public Philosophy

  • 作者: 稲垣 久和
  • 出版社/メーカー: 光文社
  • 発売日: 2006/07/22
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

 なかなか良いのだけど、まだ読み終えてないのです。

 とても良いのです。良いのですが、わたしヨコ書きって読みにくいんですよねえ。

 今日の出来事の中から、政教分離関連で非常にびっくりしたのは、北海道新聞の「卓上四季」という一面コラム(朝日の「天声人語」)がすっかり「首相の靖国参拝オッケ!」論になっていたことです。道新の不甲斐なさや酷さは重々承知していたつもりですが(数年前の勝毎花火大会での事故報道とその後の関連報道がわたしには特に印象的でした)、しかしこんな酷いとは思ってませんでした。主義主張が一切なくカタチなき「世論」に文字通り「左右」されるのが道新の真骨頂であるようです。どんな内容だったのかって? わたしが嫌うような内容だったのです。イヤ過ぎるので引用は無しです。

 ごほん。

 話は最初に戻って稲垣氏の本です。今日びっくりしたのはあまりに小泉さんその他の方々が形無しになってるところです。

 小泉首相の靖国参拝後のインタビューに、「日本では死ねば皆がカミ、ホトケになる」という言い回しがありましたが、これは国際的な公共社会ではなんら倫理的な意味を持たないものです。カミやホトケを定義しない以上、「日本では死んだ人は皆がシンダヒトになる」と言っているだけで無内容です。(p.209)


 なるほど、と思いました。しかしそれ以前に、稲垣氏が随所で仰有っているように、日本では死んだ人がみなカミやホトケになるわけではありません。だってキリスト教の人もいるしイスラムの人もいますから。それに真宗の人もいます。

 つまり、小泉首相はたしかに「精神の自由」を持つとはいえ、それを首相という立場で濫用してはならないのです。
 なぜなら、そもそも近代の立憲主義に立つ憲法とは、国家権力の濫用から市民の権利を守るための歯止めの装置だからです。首相は1人の国民ではありますが、内閣総理大臣という役職にいる間は公(=国家)権力の行政部門の最高位機関にあります。ですから一私人を装ったとしても、「内閣総理大臣」という公の肩書きを記載し、しかも、公務時間中に参拝していることが問題なのです。
 さらに、憲法99条には国務大臣や公務員の「憲法尊重擁護の義務」があって、そのうえで同20条3項の「国及びその機関の宗教活動の禁止」や89条の「公の財産の宗教組織への支出禁止」条文が適用されているのですから、この条文にも違反することになるのです。
 要するに小泉首相は、人類が到達した近代という時代、さらにはその近代が生み出した政治統治法である「立憲主義」をまったく理解していない、ということです。しかも、彼には欧米の文化・伝統や言語への素養がありませんから、自分が発した言葉が国際社会でどのように受けとられるかということを考慮できません。
(pp.220-221)


 こういうふうに言ったらコンパクトなんだなあ。あの先輩にも知らせてあげよう。首相である小泉さんは「一私人小泉」と「首相小泉」との両方の要素を持っているということであり、使い分けが求められているということですね。しかし彼にはそれがどうもよくわかってない。‥‥でもこれでもわからん人はわからんのかもしれません、小泉さんみたく。ともかく小泉さんはブッシュ以上に‥‥。
 いちばん後ろの段落、特にすごいと思いました。

 戦後は、無条件の「信教の自由」 freedom of religion が与えられています。日本の歴史上で初めてのことです。この信教の自由は、民衆を公(=お上[かみ]、政府、国家権力)の権力濫用から守るために近代憲法に実定法化されたのです。あくまでも国家権力の濫用に歯止めをかけるためのものであって、権力を持つ立場にいる公人に適用されるものではないのです。したがって、前述した小泉首相の言動は、この憲法の精神の基本の「き」も踏まえていない、と言わねばなりません。(p.230)


 とてもわかりやすいと思います。しかし、

 「信教の自由を主張する人は自分の信教の自由をおかそうとする勢力に対して“寛容たれ!わたしの信教の自由を認めてくれ!”と言うが、自分自身の信教の自由をおかそうとする勢力に対しては“寛容”でないし、他人を巻き込んで自分の思い通りにすることによってのみ自分自身の信教の自由を達成しようとする人の信教の自由を認めようともしない。他者に対して“寛容であれ!”と言う前にその人が寛容にならなければならないんではないか」

 と主張する人がいます。そういう人に対しては一体どう言ったら良いんでしょうかね(いや、本当にいるんですよ。びっくりしてしまいましたけど)。

 ‥‥今日はそんな感じです。稲垣氏の言う「公共哲学」というのがどういうものか、だんだんわかってきたような気がしますが、それを含めてこの本の総合的な紹介を書くのは別の日にゆずります、というか、まだ読了できてないのです。

 この本ちょっと難しいと思います。内容的にえらい盛りだくさんだし。

 稲垣氏に一つだけお願いできるなら、「ちくまでも文春でも新潮でも講談社でも何でも良いから新書を書いてください!」とお願いします。きっともうそういうことになって話が進んでるんではなかろうか。

 ではでは。


nice!(0)  コメント(4)  トラックバック(0) 
共通テーマ:

nice! 0

コメント 4

ぼく

お久しぶりです。
見ていて感じたんですが、「憲法の精神の基本のき」を知らないのは、別に小泉総理だけではなく、日本国民の大方なのでは?
だって「義務教育」の中で「憲法」なんて習いませんもの…。
そもそも、8月15日が終わったら「靖国」も「戦争」もどっかにいっちゃってます、完全に。
なんだか、むしょうに悲しいし、憤りを感じます。

『靖国神社解放論』面白そうですね。題名から、てっきりそっち系の人の本だとばかり…。決めつけは良くないですね。
個人的には『奪われる日本』関岡英之と『テレビはなぜ、つまらなくなったのか』金田信一郎が面白そうかなって。(全然関係ないですが)
ネットで本を買うのって、実際に本屋で買うのと比べてどうですか?
ぼくはネットで古本は買うのですが、新品本は買った事がありません。送料とかどうなんでしょう?
とりとめもない書き込み、ごめん。(昔のお侍風に)
では。
by ぼく (2006-08-28 10:54) 

chishu

義務教育でやってても日本とアメリカが戦争をしてたことを知らん人もいますよね。あれは教科書の最後の方に書いてあるから学年末で間に合わないのが悪いとも聞いたが‥‥。坊さんになる前からわたし憲法にはそこそこ興味あったんだけどねえ。政教分離がわからん人もえらい多いし、怖いですぅ~。(最後だけすももふう)

ネットで本を買うのは、1500円以上だとアマゾンもbk1も送料が無料になります。だから2冊3冊まとめて買えば良いのである。中身の確認が容易に出来ないのが問題だけど、出版されて結構経ったフツウっぽい本はたいてい紹介文があるので結構何とかなってます。あんまり的外れな紹介文もそんなにないし。

今日は本ではないけど「はらぺこあおむし」のぬいぐるみを二万円近く買いました。母の依頼です。仲間に配るんだそうです。
by chishu (2006-08-28 11:40) 

D.C.

1稲垣さんの『靖国神社「解放」論』を今日買ったばかりで、これからじっくりと読もうとしているところですけど、これまでの彼の本からするとつとめて噛み砕いて、複雑な要素を知的好奇心のある一般読者に提供しようとしている印象を持ちました。高橋哲哉と違い、普通の人の心に発露する宗教心(彼はspiritualityといっているようですが)を真摯に受け止めようとしている点では、評価できるのでは…?
 日本の義務教育がなおざりにしてきた近現代日本史。私は大学で比較文化のゼミを試みている米国人ですが、学生のあまりにも無防備な無知に驚きが絶えません。後期には学生の方から「攻めて戦後史でも
概観したい」といことで、中村政則の『戦後史』を通読するこ予定です。日本人でもない私が、次世代の日本人に自国の近過去を気づかせる…。「世も末じゃ」といいたくなる時って、本当にあるものですね。
by D.C. (2006-09-13 21:55) 

chishu

 この本を読んで気になったのは、まさにその「普通の人の心に発露する宗教心」がどういうモノになるのかを稲垣氏が具体的には把握できないまま、それを真摯に受け止めようとする努力だけはしようとしているところだと思います。

 真摯に受け止める。それは良いことだと思います。でも自分の心の中にある宗教的素養、宗教的かたよりなどに無自覚な人たちがそれと知らずに抱いているく宗教心によりそった「公共宗教」を考えていこうとするのは危険だと思います。そういうことをしていると、悪くすると行き着く先は、ある宗教現象について国家機関が「これは宗教ではない」と言い張りお墨付きを与えるような事態と、それを「フツウの人」が諾々と受容する状況だと思います。

> 学生のあまりにも無防備な無知

 良く言えば素直、悪く言っても素直、ということなのでしょうか。

 わたしも昔はそういう学生だったはずなのですけど、今は多少なりとも防御できていると思います。恐らく、この原因は、多数派に加わって安心して安堵することよりも、いろんな問題に接するとき最初に感じる素朴な疑問や直観を大事にできていることと、少数派のままでいることに恐怖心がないからだと思います。

 大多数でいられることほど安心なことはない、という「信仰」のようなものが、「日本」という場所にはあるような気がします。それが生む根拠なき安心が「無防備な無知」を生みだし、再生産している気がします。

 コメントをじっくり読ませていただいて、気が重くなってきました。でも、頑張っていくしかありません。コメントありがとうございました。
by chishu (2006-09-14 00:30) 

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0