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ちょっとした違和感。 [お寺]

 大学院の先輩で、わたしと同じ浄土真宗本願寺派のお坊さんでもある先輩が、自分のブログでなんかえらい変な記事を書いているようにわたしには読めました。もともとわたしと著しく価値観その他が違うような気のしている先輩ですが、今日はまたえらいことでした。

 この先輩には今はあんまり真面目なコメントを寄せないことにしました。直前の日記によると、真宗的な人間関係か何かに疲れてしまって、真宗的に深く考えなければ発言できないかのような環境になってるのがとてもイヤだ、的に書いてあった(ようにわたしには読めた)ので、たぶん今はあんまり考えずに直感勝負で書いてるんだと思うからです。(いつもそうだと思うのですが、今はそれが加速されているように思えます。)

 なので、もう少し直感から離れたところで話がしたいなあと思うから、今日は直接的なコメントを控えようと思いました。(でも今日のタイトルはとてもよかった。惜しむらくは、内容が全然伴ってないことであった。そこだけコメントさせてもらいました。)

 と言って輪郭のない小言を書くつもりがものすごい勢いで個人攻撃になりつつあるのでここらでこのタイトルにふさわしい話は終了。-_-;

 その先輩の日記を読んでて先輩の書いてる内容と関係なくちょっと違和を感じたことがありました。

 「後生」という言葉についてです。

 真宗ではよく(でもないのか?)「後生の一大事」という言い方をします。

 「死んだ後いったい自分がどうなるのか、あなたわからんで死ねますか!!?」

 と言ってあおるような感じになることもあるけれど、本来は

 「せっかく人間に生まれて来られたのだから、自分がどこから来てどこへ行(往)くのか、わかってから死ねたら良いですよね」

 的な、やわらかいもんだったんじゃないかと思います。(むしろ最初はおっかないもんだったのが柔らかな解釈も出てきてるということかもしれませんけど、わたしは緩やかな解釈の方が真宗っぽいと思うのです。)

 そのことを「後生の一大事」と言って問題にすることがある。真宗のお寺は後生の一大事の解決を迫る人のために一年三百六十五日二十四時間開いていなければならない、と言われたりもします。

 で、もちろん「何のために生まれてきたのか?」は、仏教全般に通じる言い方をすれば「仏教に出会うため」です。そうでなきゃ仏教じゃない。

 真宗で言えば、もちろんそれは阿弥陀さまに出偶うため、ということになります。そりゃそうだと思います。

 阿弥陀さまに遇うとどうなるのか。後生の一大事の解決がつくのです。そのためにわたしは生きてきたし、今も生きているし、これからも生きていく。

 で、この「後生の一大事」の「後生」という言葉の意味するところは何なんだろう? と思って、そこにふと違和感を覚えた、ということであります。

 (ここまで長かった、説明が。)

 真宗で使う「生」という言葉には、「往生浄土」とか「○○が生前はお世話になりました」とか、「浄土にいって生まれる」という意味で使うものが多々あります(生前というのはつまりお浄土に生まれる前、この世でのこと)。もちろん「生老病死」など、この世に生まれることを言うのもあるけれど。

 で、「後生の一大事」という場合の「生」も、今までわたしずっと「往生」の「生」の方 で考えていたんですけれど、どうもそうではないんでないか? と思えてきたのです。

 なぜか?

 なぜなら、「後生」が「往生の後」だとすると、「後生の一大事」は「往生の後の一大事」という意味になってしまうからです。

 往生の後には一大事なんてないと思うんです。
 往生できるかどうかが問題なんであって、往生の後にはさして問題がないと思うんです。

 なぜなら、ほかのご宗旨はその限りではありませんが、真宗では往生即成仏ですから、往生してしまったらもう問題は解決されてしまってるからです。

 だから「往生の後の一大事」はことさらに問題にならない。
 むしろ往生できるかどうかこそが一大事なのではないか。

 ‥‥と考えるなら、「後生の一大事」の「後生」の「生」は、わたしが今まで思ってきたような「往生」の「生」ではなく、この世に生きているという意味の「生」であり、「後生」は「この世の生が終ったあと」という意味になるのだろうか?

 と、思ったのです。

 お浄土に生まれた後の一大事 ではなく この世の生の後の一大事。

 内容的にはそれが「後生の一大事」だなあ。

 うーん。

 どうしてそんなところにいまさら違和感を覚えたかというと、それは先輩が「後生」の説明を「ごしょう;往生した後という意」と書いてさらりと流してるのを見たからです。わたし自身「後生」をたしかにそのように考えていたはずなのに、いざそのように書かれて「後生の一大事」という言葉の内容を考えてみると、えらい違和感があった、ということです。

 どうでしょう? あんまり考えなくても良いような気もしますが(後生の一大事の解決がつくことが大事なのであって、言葉の内容はさして重要じゃない、木を見て森を見ないとか、月を指す指についてあれこれ言うばかりで月そのものを見ようとしないとか、そういう愚行に陥るのはさみしい)、気になってしまったのでありました。

 どっかで誰かがもうすでに問題にしてたりするかもしれませんが‥‥。

 まあ、この問題が後生の一大事の解決につながるようなものでないことだけはたしかだ。ふへへへえ。

 ではではー。


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