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森岡正博・山折哲雄『救いとは何か』筑摩選書 [本の感想系]

森岡正博・山折哲雄
『救いとは何か』
筑摩選書 2012年3月15日
1500円+税

【密林】http://www.amazon.co.jp/dp/448001540X/
【bk1】http://www.bk1.jp/product/03519737

を読んでいます。

 わたし森岡さんは大好きですが山折哲雄は正直キライです。「大嫌い」と言っても過言ではないくらいキライです。

 昔は好きだったんですけどね。(遠い目)

 わたし、1995年3月に東京の大学を卒業して、4月から京都の、仏教系の専門学校(中央仏教学院・浄土真宗本願寺派)に行きました。その前後、山折さんが司馬遼太郎と対談したのがNHK特集か何かで3回くらいのシリーズで流れました。1995年はちょうど、1月に阪神淡路大震災、3月に地下鉄サリン事件が起こって、救いとか、信仰とか、無常とか、宗教とか、人の営みとか、いろんなことが「大変だ!」と言われシャッフルされた感じになった、そういう瞬間だったと思います。

 その時期に司馬遼太郎と山折哲雄の対談。

 そのころの、信仰のなんたるかがまったくわかってなかったわたしには、超・刺激的でした。司馬遼太郎だったか山折だったか、どっちかが「阿弥陀仏はゼロである、一億も、マイナス一億も、すべて含んだゼロである」みたいなことを言ったりして、すごく面白かった。で、専門学校では「宗教」の先生が『諸君!』をみんなに示して「普段はこんな本わたし買わない」的な前置きをしたかどうか、とにかく「『諸君!』のこの号に山折哲雄が寄稿している。中で〈浄土真宗の僧侶の誰が浅原に向かって「すべてを救済する阿弥陀仏によって、あんな罪を犯したお前も救済される」と力強く言っただろう? それが出来ないなら、真宗は、宗教は、力を失ったと言うべきではないのか?〉というようなことを問いかけた。それが話題になってこれはあっというまに売り切れた」みたいなことを言っていました。

 (諸君だったよなあ? ちがったかなあ? 週刊現代だったかなあ?)

 「なんてすごい問いかけなんだろう!」と、当時のわたしは心身を震わせたものであります。

 でも、今はわかります、そんな問いかけ無意味なんです。

 どういうことかというと、阿弥陀さまと人との関係について語るときは「自分」が問題なんであって「ひと(他人・他者)」はどうでも良いのです。自分がどうなるかわからない人が阿弥陀仏とひととの関係を気にする。自分がどうなるかわかったら人がどうなるかなんていう問いは何の問題もないものになってしまう。だから、誤解を恐れながら言うと、信のない人にしかそんな問いかけは出来ないんです。なので、今は、山折さんの信仰は真宗のそれでないことが判然と分かってしまっているので、あんまり心震わされません。体は別の意味(≒「そんなことを言ってひとを惑わせてはならん!」という怒り?)で震えます。

 そして、その問いを発するだけ発して、彼はそれにまったく答えないんですね。ここが肝心です。ひどい人です。人文学的な問いは答えそのものや解を導き出す過程などが大事なんです。問うだけ問うて知らんぷりしたらダメです。ぶるぶるっ。

 ‥‥しかし、つまりわたしはここで山折さんという「ひと」を問題にしているので、‥‥底が割れているわけです。orz

 とっ、とにかく、だから、私の中で山折氏は、当時「知識人」の代表みたいな方でありました。

 その後、龍谷大学の大学院に進んで、修士論文を書き始めて、臓器移植のことを調べ出して、その他のいろんな生命学的な(当時のわたしとしては「生命倫理学的な」)問題などを解こうとし始めて、山折さんの論文にも当たってみました。

 びっくりしました。論理がなかった。

 言葉は刺激的なのに、語られている内容そのものには何の意味もない。射程もない。方向性もない。ぐるぐるまわって外部だけに問いを発しておしまい。自分に問いかけない問いを発する論文に何の意味があるというのか。

 同時期に先輩がわたしの論文を読んで、指導というか、やんわりとダメ出しをしてくれるようになりました。そのときに「論文には、論理的な論文と、エッセイ論文と、二種類あるんですよ、いしだくん。きちんとやりたいなら前者ですよ、いしだくん。」みたいなことを言ってくださいました。(言われたときのわたしは自分の論文が後者であると言われていることがわかりませんでしが今はわかっております。大丈夫。しくしく。)で、ああ、なるほど、山折の論文がまさにソレであるのだなあと思いました。自分を棚に上げていることにさえ気づかない、生命学以前、プレ生命学以前のわたしでありました。(‥‥しかしその後その先輩は山折を評価しているので何がどうなっているのかよくわかりません。)

 何かで神道を持ち出して何か言っているのも、意味不明です。。。

 わたしの中での山折氏評が完全にマイナスに振り切れたのは『悪と往生』を読んでからです。その本は「信心獲得」関係でわたしを大変に心配してくださった方が「この本読んじゃだめです、読んでも良いけど買っちゃだめです、稀代の悪書と言って良いです」と言っていたのでついつい買っちゃいました。そして「なるほど。たしかに、反面教師としては読んでも良いけど、著者を付け上がらせるだけだから買っちゃだめだった」と反省しました。

 何がよくないかというと、‥‥面白い着想を得て書いてるんですよ、でも、検証がまったく為されていないんです。検証なき着想に屋上屋を重ねてひどい結論を導き出している。わたしでさえ容易に突っ込める駄目駄目エッセイ。着想が良くても検証して駄目だったら引っ込める水準の話で一冊書いてしまっている。馬(イカ自粛でゲソ)

 それ以来、山折氏の本は頼まれても絶対に読まないだろうと思いながら生活を送っておりました。

 が、このたび、大好きな森岡さんとその山折氏が、対談本を出してしまったのです。

 ‥‥こういうのは困ります。(x_x)

 太田光と中沢新一が憲法九条の新書を出したときも少し困りましたが、アレは立ち読みですませることができました。中沢氏のところはとばし読みして太田氏の箇所だけ丹念に読みました。それで事足りる本でした。(そうだったっけ?)

 今回は多分きちんと読んでいます。

 山折氏の物騒な問いに森岡さんがきちんと答えようとしている姿勢と過程がすごく良いです。「まえがき」では「まともな受け答えができていない」と謙遜されてますがそんなことないと思います。感情と論理とを総動員してきちんと答えている・答えようとしている。これはまさに生命学の営みだと思います。こういう、何かが生まれる瞬間が読める本っていうのはなかなかありません。

 対し、問われた問いを森岡さんがそのまま山折氏に返すと、山折氏、受け答えはまともなんでしょうが、論理展開がないまま「ぽっ」と答えてしまう。これはちょっと寂しい感じです。山折氏、完全に藪蛇です。森岡さんは問われてそれだけでたじたじになる人ではないようです。

 そんなふうな二人の状況を確認しながら、今のところきちんと読めています。

 出版前は、山折氏が森岡さんを利用する本のように思ってましたが、これは逆になりそうで、山折氏が可哀想な感じです。たぶんたくさんいると思う山折ファンが森岡さんに流れるんじゃないでしょうか。

 と、 50p/218p の時点で、そんなふうに思いながら読んでいます。

 ではです。

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