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納骨堂でのお参りの合間に少し読書してます。

「必ず救うと誓われる阿弥陀さまの願いをそのままいただくのが真宗の信心です。何も難しく考える必要はありません。阿弥陀さまが必ず救うと誓われ、そしてただ今もはたらいていてくださっているのですから救われるよりほかありません。」p.132

「お経に示された阿弥陀さまのこころを受け付けることができない何かというのは「疑心」です。「私には疑い心などまったくありません」と言われる方がおられます。そんな言葉を聞くたびに、そんな人もいるのだなぁと感心したり、驚いたり、うらやましかったり。
もちろん人の信心の中身を沙汰することなど大それたことですが、直感的に感じるものがあります。それは本当に疑心無く阿弥陀さまのおこころをいただいた人と、疑心を疑心と思っていない人です。
説かれたことを、また書物に書かれたことを頭で理解することはできます。しかしただ理解するだけでは疑心は晴れません。観念的な理解をどれだけ積み重ねても、阿弥陀さまのおこころを受け入れることとは無関係です。」p.133

「心すべきことは、私の思いで救われるのではないということです。教義や理屈を知っておれば、あとは自分がいかに納得するかの問題であるなどと思うのは、まったくの勘違いでしかありません。阿弥陀さまのこころを知らずして、何を納得するのでしょうか。何度でも、これでもかというほどていねいに阿弥陀さまのこころを聞くことが大切なことです。
問題は阿弥陀さまの願いにあるのではありません。わが思いに問題があるのです。納得するのではありません。納得させられるしかないし、納得せざるを得ないのが仏法なのです。」p.134

西光義秀
『われも六字のうちにこそ住め
信心をたまわりて生きる』
第二章 「求道の歩み」 「阿弥陀さまのこころをさえぎる心」より。

ホントそうだよなあ。
名著だなあ……。

ちしゅー
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