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松尾宣昭『仏教はなにを問題としているのか』永田文昌堂 [本の感想系]

松尾宣昭
龍谷大学 講話集
仏教はなにを問題としているのか
永田文昌堂
2015年8月31日
1700円+税

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 2014年3月まで龍谷大学の文学部哲学科の教授で、現在は富山の本願寺派寺院の住職・本願寺派司教である著者が、龍谷大学で行った講話をまとめたもの。最初の章は本書のタイトルと同じ内容を考える。それ以降の章も龍谷大学の「建学の精神」一つ一つによせて、やはり「仏教はなにを問題としているのか」を考えていく。

 目次
 仏教はなにを問題としているのか
 いのちの「尊さ」 -----「建学の精神」第一条
 自灯明、法灯明 -----「建学の精神」第二条
 内省へのうながし -----「建学の精神」第三条
 二つのおかげさま -----「建学の精神」第四条
 あとがき
 (第五条についての講話は「意に満たない」ところがあって掲載を断念した。)

 仏教の基本は「この世界は一切が苦」、思い通りにならないということであり、釈尊や親鸞聖人には「成仏を目指すべきである」という前提がある。よって仏教が最初から「この世界をどう心豊かに生きるか?」を目的にすることはない。しかし、成仏を目指す上でこの世界での生き方が問われていくものなのだ。……わたしの要約なので厳密さに不安が残るが、仏教の基本的な考え方をわかりやすく説明してから、哲学的・論理的に、緻密に、仏教や真宗を考える。

 真宗の特徴である信心等についてしっかり考える章もありつつ、また、あえて真宗よりは仏教的なテーマについて考える場面も多い。たとえば建学の精神の「生かされていることへの感謝の心」を考える章では、この「感謝」がどこへ向かうのかを仏教の基本的な教えである「縁起」に基づいて考え、ゆえに、時に軽く言われるような「相互依存」で縁起を解釈するのは無理である……ということを緻密に明らかにして話を進めていく。

 著者の自分自身の身の上に起こった出来事とその受容とを通して、仏教が問題にする内容を仏教の考え方でより深く広く考えたりもする。

 わたしは大学院の時に著者の哲学の講義を受けて、雪で飛行機が飛ばなかったため学年末試験が受けられず、研究室に個人的に相談に行ったところ、試験や哲学だけでなくいろいろなお話を聞く機会が得られ、ご信心について悩んでいるわたしに有意義なアドバイスをたくさんくださり、大いに勇気づけられまた助けられた。

 それらの講義や会話そのままの、論理の緻密さ、言葉に対する真摯な姿勢、仏教への信頼、そして人間的な豊かさ・暖かさが伝わってくる本である。もっと長くたくさんの学生を龍大で指導してくださったらよかったのに、…と、どうしても思われてしまう。

 ともあれ、大変に興味深く、嬉しい本であった。こうなるとやはり先生のご法話が聞きたくなってくる。

(永田文昌堂の本はネットではなかなか入手できません。ご了承ください。「永田文昌堂 住所」などで検索するなどして、リアルでアクセスしてみてください。)


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森澤源之助

浄土真宗、浄土宗は『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』に拠るもので阿弥陀仏の本願に基づき観仏や念仏によって穢土であるこの娑婆世界を去って阿弥陀仏の極楽浄土に往生しようと願う教えですよね?お釈迦様は『無量義経』に「四十余年には未だ真実を顕さず」と説き『法華経』に「正直に方便を捨てて但 無上道を説く」と説かれ四十余年に渡って説いた諸々の経は全て法華経を説く為の仮の教えであり法華経こそが真実の教えであると説いてますよ。浄土真宗、浄土宗の所依の経典はこの四十余年に説かれた仮の教えであり未顕真実の教えです。しかも唯一真実教である法華経を「千中無一」「捨閉閣抛」と言っては誹謗する法然や親鸞、数々の念仏僧侶はお釈迦様の教えに背いてますよ。この念仏を信仰する事 は無間地獄の闇へ堕ちます!『無量寿経』に「西方浄土の阿弥陀仏が念仏を称える者を救う」と説かれているがまだその後に続きがあり「唯五逆と誹謗正法とを除く」と言われ、要するに阿弥陀仏は「正法である法華経を誹謗する者は救えない」と言ってるのですよ あなた方は本尊と仰ぐ阿弥陀仏に背いている事を知るべきです。本尊とする阿弥陀仏はお釈迦様の経典に出てくる仮の架空の仏であり実際にこの世に出て衆生を教化した事などありません。また阿弥陀仏の本願力によって臨終の後、西方極楽浄土に往生すると言うが現実の世界を穢土だと言っては嫌う厭世思想や現実逃避の思想を生み出す事になります。しかも現実に苦悩してる人々を今世で救えないのでは真実の教えとは言えない。更に念仏の僧侶である善導は西に向かって極楽往生を願い柳の木から身投げ自殺をしたが固い土の上に落ち腰の骨を折り七日七夜に苦しみ死んだという事実がある。これこそがまさに正法である法華経を誹謗した罰の姿です。この正しい法華経を広めて下さり末法のこの世を救ってるのは日蓮様なのですよ。日蓮様は善導の死について「善導と申す愚癡の法師がひろめはじめて自害をして侯ゆへに念仏をよくよく申せば自害の心 出来し侯ぞ」と言われ現世を厭う事を教える念仏を唱えるならば善導と同じように自殺願望の心が生 まれると破折されています。『法華経』には「我常在此。娑婆世界」 「我常住於此」「我此土安穏」と説かれており真実の仏は常に娑婆世界に住して教えを示され衆生を教化されるのであります。この真実の仏様である日蓮様の教えを信じて題目を唱えていくと私達の住むこの娑婆の世界もそのまま寂 光の極楽土へと転ぜられ即身成仏を遂げることが出来ます。あなたが単なる利益目的ではなく世の中の平和を祈るなら日蓮正宗 法華講の寺へ訪ねて改宗されなさい。南無妙法蓮華経
by 森澤源之助 (2015-10-10 12:37) 

chishu

森澤源之助さん、コメントありがとうございます。

しかし、読みにくいです。もう少し読みやすさを考えて、随所に改行を挿入してください。

なお、釈尊が『法華経』や『無量寿経』を直接的に教説なさったという説をもし採られるならば、それは歴史的事実とは異なりますので、ちょっとお話は出来かねます。象徴的な意味でそうおっしゃっているのならそれで良いのですが。

中村元『バウッダ』に、「釈尊の直説はこの世界に一切残っていないが初期仏教経典にはそれにかなり近いものが残されている。そして大乗仏教経典は釈尊の直説ではないがそれでも仏説と言い得るものである」という旨の説明が丁寧になされていますので、同じ大乗を生きる者として、そこを共通見解の基本ラインとしたいと思います。認識を少しあらためてください。

また、自分が仏に成る道が自分にとっての唯一の仏道だからといって、他の人が歩む自分のそれとは異なる仏道を故なく貶めるのはやめていただきたく思います。

そして、第十八願文と第十八願成就文の「唯除五逆誹謗正法」についての森澤さん独特の理解をお示しですが、その理解はあまりに中途半端で独りよがりです。ご存知かと思いますが、『法華経』を至高と奉じる論理と世界観とで『無量寿経』の救いと世界観とを十全に理解することはできません。『無量寿経』にも『法華経』同様に釈尊の出世本懐の経である旨は明示されています。『無量寿経』は『無量寿経』の論理と世界観で読むべきであり、「唯除五逆誹謗正法」のご文もその文脈で読むべきなのです。『無量寿経』では救われないとか、お念仏では救われないとか、その文脈で読むべきではありません。

ところで、善導大師の伝記理解も、それはあまりに無茶です。かなり以前に創価学会の友人から聞かされたのと同じ内容で、同じように無茶です。

あと、日記の内容からかけはなれた内容の書き込みは、今後は削除させていただくことがあります。ご容赦ください。

とにかく、次に書き込みなさる時は、改行を挿入して、読みやすいカタチにしてからお願いします。

以上です。

南無阿弥陀仏。
by chishu (2015-10-16 22:08) 

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