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紛糾、総長交代 浄土真宗本願寺派 [時事ネタ系]

蓮如作「領解文」の現代版巡り紛糾、総長交代 浄土真宗本願寺派
毎日新聞
https://mainichi.jp/articles/20230601/k00/00m/040/045000c
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 浄土真宗本願寺派(本山・西本願寺、京都市下京区)の実務トップである総長が31日、交代した。過去最長となる8年8カ月にわたり、連続して総長を務めた石上智康(いわがみちこう)氏(86)に続き、日本最大の仏教教団の宗務を率いることになったのは、石上氏の片腕となる「筆頭総務」だった池田行信氏(70)。門信徒が高齢化するなか、現代の若い世代にも浄土真宗の教えを伝えたいと1月に制定した文書を巡り、両氏ら執行部(総局)は、僧侶・門信徒から批判や疑問をぶつけられてきた。それがトップからナンバー2への「委譲」となり、異例の混乱が収束するか不透明だ。【南陽子】

石上前総長退任あいさつ、異例の30分
 石上氏の辞任に伴う臨時宗会で5月30日、登壇した同氏の退任あいさつは、異例の30分に及んだ。「ご心配をお掛けしておりますので」と前置きして述べたのは、1月16日に宗主の大谷光淳門主(45)から発布された、信仰の要点を分かりやすくつづった「新しい『領解文(りょうげもん)』(浄土真宗のみ教え)」の制定をめぐる「主要な事実」。発布に至る手続きの正当性を事細かに説明し、同文書の取り下げを求めている「勧学・司教 有志の会」を名指しで批判。「『み教えの肝要が広く、また次の世代に確実に伝わる』ようにとのご門主のお心にそうべく、1日も早く宗門の秩序が回復されるよう切に願う」と強調した。

最高位学識僧「勧学」ら、総局と対立
 石上氏が対決姿勢を鮮明にした「勧学・司教 有志の会」は23日、西本願寺近くのホテルで記者会見を開いた。勧学とは、教義に精通した同派最高位の学識僧。同会には深川宣暢代表(70)=龍谷大名誉教授=をはじめ、4人の勧学と、勧学に次ぐ司教15人が名を連ね、3月以降、新しい「領解文」について「教えの誤解と混乱を招く」と異議を唱える声明を発表してきた。

 現在、勧学と司教は計33人いる。深川勧学が「信仰上問題がある」とも述べた会見は、いわば教学のけん引者の過半数が公然と総局を非難したことになり、会が動画配信サイト「ユーチューブ」で中継した会見映像は、31日までに約1万9000回視聴された。

門主の新しい「領解文」唱和に反発
 真宗門徒が心得るべき信仰上の要点である領解文は、中興の祖・蓮如(1415~99年)の作とされ、宗祖・親鸞(1173~1262年)の著作などの「聖教(しょうぎょう)」に準ずると位置づけられている。長年、得度式や宗祖の遺徳をしのぶ「報恩講」などの法要で唱和されているが、分かりやすい“現代版”を定めようと、光淳門主の消息(手紙)という形で発布。3~5月の宗祖誕生850年などの慶讃(きょうさん)法要では、法要に続いて参拝者一斉の唱和を呼びかけた。

 しかし、唱和などを推し進める総局に対し「強行だ」との反発が広がった。宗派は新しい領解文のポスターを全国1万の寺院に配布したものの、受け取りを拒否して送り返したり、反対意見の文書を送ってきた寺院もあったという。

 定員18人の勧学のうち、5人は門主の諮問に応じて答申したり、門主が出す消息(手紙)に同意したりする「勧学寮」を構成する。有志の会は、勧学寮の同意を得る手続きに瑕疵(かし)があったとも主張。一方、30日のあいさつで石上氏は、勧学寮の現在の寮頭=手続き当時の寮頭は3月31日に辞任=と面会し、勧学寮が同意し、同意書に別添の文案そのままで発布されたことを確認したとし、双方の主張は平行線をたどる。

池田新総長は「ご門主の心に添う」
 新総長は、光淳門主が指名した候補2人に対し、31日に宗会議員の投票が行われ、池田氏が過半数を獲得した(投票総数74票のうち47票)。宗派内の混乱に今後はどう対応するのか。新総長に就任した池田氏は、新しい領解文について「ご門主の心に添うよう、前総局がやってきたことを継承するのが、指名を受けた者の使命。取り下げの手続きは総局にはできない」と記者会見で述べた。

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わが宗門のいろいろが一般の新聞で紹介されました。
とても良いことです。

「領解文」というのは、記事の見出しにもあるように「蓮如作」といわれている文章です。(実際には蓮如さまの作ではなさそうです。)本願寺が東西に分かれる前に出来た文章なので東西本願寺ともけっこう大事にしている文章です。本願寺派(東西の西)では「得度」という僧侶になる研修・儀式のいちばん最後にこの「領解文」を丸暗記した上でご門主の前で得度者全員で絶叫するという謎のような儀式があります。正直わたしそのときはとてもイヤでした。しかしその後いろいろなことがあってそこそこまるくなる中であんまり気にならなくなりました。得度のとき以外ではあんまり読まなくていい文章です。が、ご法話の会の終わった後に読む場合があります。わたしが得度以外で読むのはほぼご法話の後でした。

内容をよくよく吟味すると、個人的には何んか変な感じがする部分があるのも事実でした。しかしながら得度は儀式ですから、なるほど、うちの浄土真宗というのはあんまり宗教じみて感じられないけれど、こういう儀式があるというのはやっぱり宗教だったんだなあ、などと思ったりもしています。

その領解文が今回あたらしくなったようです。理由は、ご門主がおっしゃることを総合すると、若い人、今まで真宗の教えにご縁のなかった方々に真宗の教えがひろまっていくことを願って戦略的なことを考えたうえでの変更と言うことになるようです。

が、いまいち「それ」がよくわからないとわたしには思えていて、とてもコマッテイマス。

違和感とかオカシイだろとかいろいろあるんですが、つらつら箇条書きしますと、

・若い人・知らない人に伝えるなら別に領解文でなくて良いんでないかなあ…… 新しく何かまったく別のものを作文して、それで伝えた方が早いんでないかなあ…… ?
・ってか、この文章の内容って、真宗じゃないですよね? あきらかに従来の言い方はもちろん、内容からもかなり逸脱してるけど、……従来の言い方が通じないから何とかしようと思うのはわかる気がするけど、だからって内容まで変えて「これが新しいqあswでfrtgyふjきおって言っても、かえって誤解を招くんじゃないかなあ……
・なんか、制定の手続き的に「問題はない」と総局(実質的に本願寺派では今いちばんの権威)は言ってるけれど、たしかに手続きの報告に関しては問題がないけれど、手続きの内容と実際の「やりとり」をしっかり詳細に分析すると手続き的な「問題はない」というべきではなく、手続きに「問題はない」と言えるように無理矢理に手続きの周囲を別の問題ありありのやり方でかためているので、かえってかなり深刻に問題なんじゃないかなあ……
・何か問題が起こったときに「手続き的に問題はない」と言い張られる場合って実際にはかなり問題があるってことと同義だと、ここ数十年の日本の政治を見ているといやでもわかってくるんです。同じような感じに、どうしても思えてきてしまうんだよなあ……

みたいな感じです。

はっきり言えばこういうのはスルーすれば良いだけなんだけど、今回ちょっと問題なのは、わたしには問題アリアリに見えてちょっとかなりしんどいその一連の文章をもってきて「全員で100%唱和しよう」って言って来てるんです。

えっ。本気ですか……?

わたし、政府関係のもろもろで「黙祷」って言われてもこっそり「なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ、」って言い続けてるんです。ここだけの話ですが。そしてそれを政府のもろもろは容認してくれているんですよね。「100%黙祷しようぜ!100%!」とかわけわからないことは言わないでスルーしてくます、というかわたしがスルーすることをスルーしてくれている。君が代もそう。

そういう配慮っていうのは必要だと思うんです、権威とか権力とか持った人がやる場合って。
なのにそういう配慮をしないっていうのは、ちょっとかなり深刻に問題かなって思います。

内容的な問題というのは、……ぐぐればかなりいっぱい出て来ますが、あえてあらためてお伝えするならば、こういうことかなあ……

・浄土真宗の上で何か「良いことをしよう!」と思ったときは、その人のやりたいようにやれば良いんだけど(しちゃ駄目という理由はどこにもない)、その「良いこと」をする理由を、自分の宗教的な救いの条件をみたすためのモノと位置づけてやるのはナンセンスだ、という大前提があるのに、そこをかなり誤解させる文章になっている。

・浄土真宗の上で、浄土真宗と関わりを持つことによって自分の人間性なり何なりが改善した!と思うことが、ある場合はあるんだけど、その「改善した!」と自分が思ったことを真に受けて「自分は改善したんだよ!」と言うのは、真宗を理解していないということになるんだけど、そしてそれは真宗の共通認識なんだけど、それをうまく誤解させるような文章になっている。

この2点に違和感です。

最初のはわかると思います。二つめがよくわからないかもしれないので説明をこころみます。

真宗では、誤解を恐れつつ言い切ってしまうと、自分の救いの理由を、自分のわけのわからないほどの救われなさ、馬鹿さ、みたいなところに求めます。どんだけ改善しても改善しても、ぜったいに最善にはならない、のみならず、少し「改善した」と思ってもそれは仏の真実性の前では誤差の範囲内の出来事であり問題にならない、だから「わたし改善した!」と思うところにこそ自分のどうしようもなさがある、という考え方をします。

もちろん社会的に何か良いことをしたとか、あの人はバランスの取れた人格者だと言われまくるようになったとか、そういう場合もあるだろうと思います。そして「たしかにわたしは改善している」と思うこともあると思います。しかしながら、その改善は「世間の相対的な基準からみれば」ということだし、「あの時点のわたしよりは」という相対的なものです。対外的なものと言えるかも知れません。しかし宗教的な自覚という面からは「少しずつよくなる」とか「少しずつ悪いところから遠ざる」みたいに言える水準では絶対にないし、「いいや、わたしなんかまだまだです」ということでもない。一切なにも変わっていないわたしがヨロイやパワードスーツをまとって強くなっている感じ、みたいな考え方です。仏と人類との善悪における断絶が、仏がわたしの救いを第一にしている理由なのです。

だから「必ず改善する!」みたいに言ったら、それは真宗的には嘘なんです。ヨロイや武器を手に入れて強くなった、しかしそれらをはいだら元々の強くないわたしがいる。また、言ってみれば、改善されるたんびに自分の現状が変わるから、改善されていない状態に、相対的な(?)ゼロに戻る、みたいな感じでもあると思います。そういうのが真宗の善悪感の根幹みたいな部分にある。だから「真宗のヨロコビをいただいたわたしはちょっとずつだけど良くなります」って言ったら、真宗の前提が共有できていないことになる。外部から見て「あの人真宗になってちょっと良い方に変わったね」と言われることがあったのかもしれないけれどそれを真に受けて真宗的にちょっと良くなってると思い込むのはナンセンス。

なんまんだぶ。ちょっと文章がおかしくなり始めている気がするので、今日はここまでにします。推敲も明日に回したいと思います。(と書いていたとおり、ちょっと推敲しました。あんまり変わらない。)
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