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フィクション、方便、うそ、…… [法話]

ご法話、更新です。



2024年4月16日 妙法寺(音更)あさまいりのご法話です。
担当は妙法寺住職:石田智秀です。

ご讃題(最初にいただく聖句)は

定散諸機各別の
 自力の三心ひるがえし
 如来利他の信心に
 通入せんとねがふべし
(親鸞作『浄土和讃』「観経讃」)です。

『仏説観無量寿経』には、たくさんの修行の方法と、人間の9分類について、詳しく説かれています。フツーに読むとお経の中心にあるその部分が大事だと思えるのですが、善導大師はその部分のいちばん最後に説かれている「南無阿弥陀仏ですよ」というところが大事であると結論づけました。親鸞聖人もそのようにいただかれます。

方便という言葉があります。「嘘も方便」というふうにも言われますが、そんなことはありません。嘘は嘘、方便は方便です。仏さまには方便が使えますが、人間には使えません。フィクションはフィクションだとことわるのが良いと思います。

石田は一度だけ、まったくのフィクションでご法話をしたことがあります。布教使の研修会の中での課題でした。

「ごく一般の、仏教にまったくなじみのない人たちの前でご法話をすることになりました。どんな状況で、どんな人たちを前にしてのご法話か、状況説明をしたあとで、ご法話を実演してください」みたいな感じの課題が出て、5~6人ずつの何班かにわかれて実習をしました。持ち時間は5分か7分くらいだったと思います。「明日やるので考えてきてください」と。「どんなご法話でも構いません」と。一泊の研修会でした。

当時わたしは結婚して、子どもが生まれてない時期でしたが、うまれたことにしてご法話を考えました。

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妊娠がわかり、病院に行って出産をするための準備をする。病院では同じ時期に出産をする人と配偶者に出産のための教育をしてくれる。そこで仲の良いサークルが出来る。そのサークルで、出産後、「出産を機にこのようなことを考えた」という発表を、集まったみんなで順番にしていくという会が設けられる。わたしはそこで「わたし実は僧侶なんです、妻もです、だからちょっとフツウと違うかもしれないことを考えたんです」と言って、このようなご法話をさせていただきました。

出産した日、妻と子どもは、夫のわたしや、妻のお母さん、わたしの母など、いろんなひとから「よかったね、よかったね」と祝福される。やがて夜になる。妻は、自分の胸の上に赤ちゃんを置いてもらって、おだやかな気分になる。そしてふと「ああ、この子も、やがて死んでいく命なんだな」と気づく。「この子だけじゃない。わたしもそうだった。わたしも死んでいく命なのだ。……何のために生まれて来たのか。それは仏さまにあうためだったんだなあ。この子もわたしも、仏さまの願いの中にあったんだなあ……」と思い、涙する。

そんなことがあったと、翌日、わたしは妻から教えてもらいました。そうだった、そうだったなあと、思いました。妻も子も、わたしもあなたも、終わるいのちを生きています。このいのちは、仏さまから、仏さまになることを願われているいのちなのです……
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……みたいなご法話をしました。繰り返しますが、当時わたしは結婚はしていましたが子どもは授かっておりませんでした。完全なフィクションです。(ただ、元にしたエッセイはあります。)

話し終えて、聞いてくださっていた方々を見ると、どうも感動しているように思えました。実際、指導の先生が感想を求めると「すごいお母さんですね!」という意見をおっしゃる方もありました。

わたしは「すみません。わたしは結婚しておりますが、子どもはおりません。これは完全なフィクションです」と正直に言いました。

みんな、……みんなでもないですが、かなり動揺され、憤慨されました。
法話実習が「どんなご法話でも良い」という縛りというか、条件だったので、初めてフィクションでご法話をさせていただきました。

フィクションでも感動することはあります。映画とかお芝居とかがそうです。フィクションだとわかっていて映画館に行って「泣ける話だった」「感動した」などなど感想を言います。そういうことはあります。だからこそ、ご法話では、フィクションはフィクションだときちんとことわってから話すか、話したあとでことわるか、しなければ危ないのだなあと思いました。

感動すればフィクションでも良い、ということではあると思いますが、フィクションを事実であるかのように話すのはよくないと思います。きちんと分けてお話しするのが良いと思います。

かつて「江戸しぐさ」というフィクションがもてはやされ、教科書に「事実」として載ってしまったことがありました。あれは本当に良くないことだったと思います。他にも『水からの伝言』、『百匹目のサル』という、有名な「フィクションが事実であるように語られてしまう話」があります。気をつけたいと思います。ネットで感動的な話を見かけると、本当なのかな、フィクションかもしれないな、と思って、調べる癖がついています。

たまに他者の経験を自分の経験のように語る方がありますが、あれもよくないと思います。深夜のTV番組で話していたのと同じ内容を自分の経験にアレンジして大声で話す学生を学生食堂で見たことがあります。いつ「これはこないだ伸助がTVで話してたんだ! 伸助は高校生の時って言ってたけどオレは中学生にアレンジしたんだ!」と言うのか待ってましたが、結局最後まで言わずに終わってしまいました。あれはあまり美しくありませんでした。すごく久しぶりに思い出しました。

なんまんだぶ。

(YouTubeチャンネルの説明から転載)

なお、参考にした「エッセイ」は、塚原久美さんの『中絶技術とリプロダクティヴ・ライツ: フェミニスト倫理の視点から』の「あとがき」の部分です。

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