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図書館。 [政教分離]

 靖国問題のうち、特に政教分離問題の調査というか何というか、資料を探しに図書館に行きました。町立の図書館、わたしが中学生の頃は中学校から400mくらいのところにある「農村環境改善センタ」内にあってとても便利でした。『幻魔大戦』を全巻借りたけど途中でわけがわからなくなって読むのを断念したり、『アドルフに告ぐ』を見つけて図書館にマンガが蔵書されてることにショックを受けたり、ルパンやホームズや怪人二十面相を読むばっかりで、『それから』や『潮騒』や『斜陽』のような純文学的な感動を味わうことをすっかり忘れておりました。ええと何を書こうとしてたんだっけ。

 ‥‥町の図書館に行って、憲法20条や89条関係の判例を探しました。ネットで知り合うことが出来た現役の弁護士さんが有斐閣の『ジュリスト 憲法判例百選』を勧めてくれたのでそれを探したけどなかったので、似たようなのをまず三冊借りました。その後、受付のおねえさんに言って探してもらって、『ジュリスト』の方も別の図書館から借りてもらえることになりました。大学の図書館では一貫して雑誌は借りて帰ることができなかったので、雑誌を持って帰ってこれるってのが新鮮です。とにかくオンラインで各図書館がつながって貸し借りしあえるのってとても便利、とても素晴らしい。

 ちなみに憲法の20条と89条は‥‥

第20条
(1)信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
(2)何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
(3)国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

第89条
公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない。

 という内容です((1)(2)(3)は本当は「まるいち」「まるに」「まるさん」です)。昨夜風呂に浸かりながら靖国関係で思いついたキィワードは「Must と Why don't you ~ ? の違い」です。うん、いま考えてもなかなかうまい言葉だと思う。思うのだが、いかんせん説明がひどく長くなるのが困る。また、どうして英語になってしまうのか、そのへんの自分の日本語の語彙力の貧弱さを反省しなければなりません、と言っているこの文章自体「の」が三つも続いて居心地悪いです。

 89条の関係で一つ。本願寺ではいま御影堂を修復してます。クニからもお金をもらってやってます。毎年少しずつくれるので毎年少しずつ直してるんだ、という話を聞いたことがある。公金が本願寺の修復に使われているわけですが、これは国家の機関が宗教団体の持っている「文化財」を保護したり修復したりするためのお金を出してくれてるのであって、本願寺の便益若しくは維持のためじゃあない、ということなんだろうなと思います。ありがたいことです。そして、それと玉串料を公費から出すこととはまったく違う話です。そのことを説明するときに「must と Why don't you~? の違い」が使える、と思う。

 だんだん寒くなってきていて、比較的近所の然別湖や糠平ではすでに紅葉のピークは去ったんだそうです。惜しかった。帰ってきたらとりあえず然別湖の紅葉を見ようと思っていたのに‥‥。


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靖国の参拝。 [政教分離]

 小泉さんが靖国神社に参拝したんだそうです。

 今回は、公用車を用い、しかし一般の人と同じ方式で、玉串料の奉納や「内閣総理大臣 小泉純一郎」と書く記帳そのものも行わず、‥‥という方法をとっての参拝だったんだそうです。

 総理大臣が、公用車を用い、公務時間中に行えば、本人がいくら「私的」な参拝なんだと「主張」したとしても、それは「公的」な参拝になってしまいます。実際先日は小泉総理大臣が別の機会におこなった靖国神社参拝は違憲だとの判決も出ました。今回の参拝ももちろん当然完膚無きまでに違憲です。違憲が確定した中で違憲を連ねる姿勢が示すのは、政教分離を定めた憲法を、わたしは今後もどんどん反故にする用意があるぞという態度表明なのだろうと思う。反故にして反故にして、最後にはコレを変えますよ、という。

 今日の小泉さんの参拝は違憲だからもちろんいかんのですけれど、しかしわたしとしては、憲法に政教分離が定められているからいけないんだ、という主張を今まで通り繰り返していても埒が明かなくなる日が早晩来るのが明らかな以上、憲法に定められているからではなく、もっと大事なところでダメなのだ、憲法はそのもっと大事なところを補完するために定められているに過ぎないんだ、ということを主張すべきだと思っております。

 そのように考えているのですが、さてさて。

 【まるさんのサイト】からリンクされている掲示板からさらにリンクされていたブログを見た感じでは、わけがわかってない人がわかけのわからない戯れ言を書いて、いろんな人がわけわからないまま、自身の無知を専門家の説明不足というまったく筋違いの理由で片付けて無知を無知のままで放り出してそのわけのわからない戯れ言に賛同して、‥‥ということを続けていけば、無知は無知のままで多数意見となることもあり得、そのまま法律も何もかも承認されていくこともあり得るんだなあ、ということを再認識させられるばかりでありました。

 この問題は、まるで臓器移植法の自民党による改正案と同じ問題をはらんでいます。民主主義は衆愚政治と紙一重だと思っておりましたが、あるいはひょっとするとこのクニでは紙一枚分の違いさえ既になく、まったく同義なものと化しつつあるのかもしれません。

 とりあえず、声の大きい人の意見、あるいは大きな活字で書かれた意見、あるいはたくさんの人が読んでいるように思える記事が主張している内容に対して、それが多数意見っぽいからという理由だけで闇雲に賛同するのはやめましょうよ、と言いたい。自分の先入観を揺すらない意見だけを食べ続けて生きていけると思わないで欲しいんだなあと言いたい。

 ‥‥ちょっと話はズレますが、とりあえず、政教分離と再生産装置がわかってない他の国の政府は、問題の一部だけを針小棒大に取り上げ、勢いだけで内政干渉せずにいてほしいものです。話がややこしく・かつ無駄にヒステリックになるだけだと思うのです。


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発言者と発言内容。 [政教分離]

 わたくし、最近の文章力の低下は如何ともしがたいものがありますが、小さい頃は生意気なくらいに弁が立ち、口喧嘩ではほとんど負けたことがなかったんだそうです。というか慥かに勝った記憶しかないです、逆に腕力の喧嘩では負けた記憶しかないし。こまっしゃくれたガキが妙に正しいことばかり言いやがって腹が立つ、完全にああいう感じです。

 そういうノリで親に対してもやっぱり酷いことを言っていたらしい。前に書いたかもですが、あるとき「相手に対して腹を立てているからと言って、相手の発言内容が正しいことがわかっているのにそれを採用しないというのは如何なモノか!」みたいなことを言ったらしい。こないだ親と話してたときに「あんた昔こういうことを言っていたのに、自分では全然できてないみたいだねえやれやれ」的に言われてすごくびっくりしました。ものすごい正論であるだけに言われた方はものすごく腹が立ち、しかしその通りだから何とかそういうふうになれるように努力しようと思い立ったため鮮明に記憶していたんだそうです。

 いやー。言うは易く行うは難し。

 「中国の要人に行くなといわれて行かなかったらどうなるか」by たけべ氏 ‥‥ こらガキですね。二カ国を取り巻くすべての事実を外向的なつまらんカードに変換して切り合ってる異国の為政者に何を言われても、そんなものは何も関係がないんです。関係がないというのはつまり、相手が言ったことだから法律的にとても正しい内容なのに実行できないなんていう奇天烈な事態には絶対にならないということです。それなのにガキの喧嘩でもよう通用せんこんなことを大声でのたまう。政治家なんだから逆にもう少しガキのような正論を吐いて欲しいです。

 「政治家が言ったことは絶対に覆してはならない」by 平沼氏 ‥‥ そうそう、こういうガキのような正論を ‥‥ いや、これもいかんですね。もう一つ「政治と宗教とは絶対に分離しなければならない」という正論を一緒に吐かないと駄目だろう。そして「嗚呼( ´△`)アァ-。矛盾している! 絶対の盾と絶対の矛はあり得ないのだ! あぶはちあぶはち!」などと言って自滅して欲しい。

 センセー方はエラいんだから、宗教に関してジコチューで没論理なくせに規範的なドス黒い偏見を主張するのにかまけていらっしゃらないで、ちょっとで良いから政教分離の絡んだ記述的に正しい知識を身につけて、それから語って欲しい。無知蒙昧でうすのろ馬鹿な大量票を獲得してウハウハ言う衆愚政治じゃなく、ちゃんと民主主義を推進して欲しいものです。

 言うは易く行うは難し。政治家じゃなくて良かった。

 ‥‥ 「わたしの言うことを聞いた方がいい!」 という言い方は嫌いです(一生したくない物言いの一つだ)。言うなら正しく「わたしの言っている内容はたまに正しいかもしれないから正しいと思えた場合は聞き入れた方が良い」と言いたいです。しかしそんなの言う必要もない。

 しかし言うは易く行うは難し。内心で「なんでコイツは言うこと聞かんのじゃあ!」って怒ってばかりです。他人を好きになれない人は他人から自分のことを好きになって貰えないという言い回しがありますが、他者の語る内容を受容しない人は自分の語る内容を他者に受容して貰えないという以前に、自分自身を好きになれない人は他者のことを好きになれない → 自分自身が自分の言うことを聞かんのだから他者が自分の言うことを聞いてくれるわけがないということになると思います。

 うん、今日もほどよく混乱している。


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うまくない。 [政教分離]

 キムタクが『2046』の宣伝でインタビューを受けてるのを見ました。彼の話し方や文法、語彙は「急いでいて日本語が今ちょっとおぼつかないんです!」と言ってるだけの内容に思えました。椅子に座ってじっくり・ゆっくり語れる環境であるように思えるのに変わった人だなーと思いました。そこまでは他人事だったんだけど、落ち着いて書いているのにどうも日本語がおぼつかない、まるでわたしの日記のようだなーと思ったら、悲しくなりました。

 小泉首相が、“わたしの靖国参拝が日本政府と中国政府との関係がこじれる原因になっている、との考え方はとりません”、という旨の発言をしているのを見ました。たしか中国政府は再三「小泉首相の靖国参拝が(中国政府側からの)日中関係をこじれさせる一つの要因となっている」という旨の発言を何度もしていたはずなので、ちょっとだけ唖然としました。小泉さんに何かを期待するのはもうやめようと思いつつ、でも人は決して凝り固まった現象ではなく変わろうと思えば変われることがあったり、変わろうと思っていなくても変わってしまったりする現象でもあるので、ひょっとすると変わるかも知れないという妄想を抱きつつ、気にしています。

 念のためにわたしの考えを言いますと、中国政府その他が首相の靖国参拝について日本政府に何か言ってくるのが内政干渉ではない「との考え方はとりません」。それをゴリゴリ押して無意味な言辞を吐き続ける中国政府の言い分を通すために首相の靖国参拝をやめて欲しいと言っているつもりもありません。うちの首相がわたしでもわかる政教分離の原則を理解できないで首相であり続けていることを憂え、そこから反対しています。

 などなど、最近非常にうまくないです。社会情勢や政治のかけひき、MLBの結果、台風等いろいろありますけど、最近わたしにとっていちばんうまくないのはわたしの頭の中の調子です。いつも以上にどよよ~んとしてます。


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「母」と「政治」 [政教分離]

◇ 「母」に政治はできない。

 イラクで人質になっている少年のお母さんが心配してTVカメラの前でさめざめと泣きながら、でもしっかりと喋っているのを見ました。その後で別の「人質」の家族の方が、「なぜ日本政府の取り得べき選択肢から自衛隊の撤退という最重要と思えるモノが消えたのか?」的に喋っているのも見ました。このようなスタンスを、自分の愛する人をすべてに優先して考える人という意味で理想・象徴的に「母」と呼び得るのではないかと思います。

 母に政治は出来ないと思います。外交は特に出来ないと思う。阿倍幹事長のコメントがゆらゆらして見えるのは、彼はあっちの事件では「母」の立場なのに、この事件では思いっきり「政治」の立場に立とうとしているからなんじゃないかと思いました。

 自衛隊はなぜあそこに行ったのか。それはアメリカ政府のやり方に対して日本政府が「ぐっじょぶ!」と言って親指立てる必要があるからです(政府と国民とはこの場合ほとんど関係ないと思います)。彼らはそれを表現するためにのみ派遣された。わたしはそう考えてます。そしてなぜ日本政府がそんなことしなきゃならないのかと言うと、それは日本がアメリカという、現時点では唯一にして最大の超大国の属国だからです。このクニは昔からずっと「漢の倭の奴の国王の印」や、それに準じたモノをもらうために頑張っているのです。

 ‥‥わたしの表現の陳腐さは置いておいてもらって、ともかくそれが政治だと思います。特定の集団を代表するとされるヒトがいて、そのヒトは集団を代表するが故に集団の全体や集団を構成する個々のヒトの利益も代表するとされているから、代表と代表とで話し合いをすればそれぞれが代表している集団のこれからを決定することが出来る。そういう場合の多くに於いて、そういうヒトは人間のココロなどという不確定なモノを優先する方法だとか、満足させる方法だとかを無視して動く。だから何があっても自衛隊は撤退できるわけがない、現時点においては。それが政治だと思います。

 大事なことなのに蛇足のような感じになりますが、【セキュリティホールmemo】 経由で見た動画ではやっぱり拷問その他が行われているようです。その後 【たつみ】 んちに行ったら 【弥絵】 さんちから 【ココ】 の動画を知ったと書いてありました。ともかく確定のようです、彼女たちは要らんことされてるようです。

◇ 「政治家」に母はできない。

 母という属性を持っている人が政治家になれないと言いたいわけではない。

 (ニホンの現在の)政治家は多数決をする者のようです。何で読んだか忘れましたが、1人が死んで10人がとりあえず生きながらえるのと、11人がじわじわ死ぬのとでは、積極的に前者を選ぶのが政治だ、みたいなことが書かれていました。正確なことは覚えてないからわたし好い加減だけどコレってヒトがたくさん集まってやる多数決ではなくヒト1人の心の中で議論して決定していく個人的な多数決に過ぎないじゃないかと思ったのは覚えてます。そういう人は上で言った意味での「母」を絶対にできないんじゃないか、と思いました。

◇ 目的はカネ?

 ところで、人質を取った彼らは何を目的にしてるのでしょう。お金じゃないとしたらわたしにはまったくわからない。「母」の情に訴えながら「政治」的なことをしようとしているように思えるときもあるけれど、その「政治的なこと」というのは本当に自衛隊の撤退なのか? そんなのがたった3人の民間人の命(上記の意味での「母」には何よりも重い、しかし政治的にはあまりに軽い)と引き替えにできる性質のものでないことは彼らにもさすがにわかってるのではないかと思う。

 ‥‥やっぱりお金が欲しいのではないかなあ。今まで誰も聞いたことのない集団には二種類あると思う。完璧にイっちゃってるか、完璧に打算的か。後者ならばお金。もしそうであるなら日本政府は相手がどこにいるかさえわかればかなり動きやすくなると思う。逆にお金が目的でないなら何をやっても無意味だと思う。その場合には人質を取られたということ以上には何も進まないと思う。政府としては何かが起こったらそれに対応する敷かなくて、つまり事後事後でわけがわからなくなると思う。『Band of Brothers』や靖国神社が奨励しているように思えてならない怨恨・仇討ち・その他は無限連鎖し得るものであるし、政府はその性質から言って、何でも利用できるモノは利用しようとしながらすべてを食べて大きくなろうとするものであるから、われわれはせいぜいそれに利用されないように踏ん張っていなければならないと思います。

 頑張ったけど最終結論が出せません。寝ます。


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自衛隊のイラク派兵に思う・考える・書く [政教分離]

 昨日から大幅に改稿しています。結論はどうなったのかな。
 ‥‥なくなった。(・_・)

■ はじめに

 自衛隊員のイラクへの派兵(派遣?)が正式に決定されました。
 派兵を決定した人たちは、当初は「自衛隊員の犠牲は絶対に出してはならない」と考えていました。しかし今は「犠牲が出ても仕方がない」or「かまわない」or「当然かも知れない」へと考え方を変更したように、わたしには思えています。(さすがに「犠牲の出ることを期待している」ようには思えませんが ‥‥ 。)
 この路線変更は、派兵の動機が「大義を貫くこと」「体面を保つこと」「遺志を継ぐこと」の3点だからなんだろうと思います。でも、この3点を動機として自衛隊の派兵を考えていたんではダメだと思います。なぜなら、これはすぐ「報復」につながってしまうんじゃないかと思うからです。そうしないためにもっと考えるべきこと・試すべきことがあると思うし、踏むべき手続きがあると思います。なので、自衛隊の派兵に絶対的に反対ではありませんが、現時点では反対でござる。

■ 1.前提・願い・決意の放棄

 派兵するかしないかの話が出た最初のころ、公明党以外の与党は、「もちろん派兵は非戦闘地域に限ります」って言ってました。公明党は「戦闘地域なら論外だけど、非戦闘地域ならまあ良いかも?」的に言ってました。
 そこにあったのは、自衛隊員が誰も彼も絶対に犠牲にならずに帰ってこれなければ困るんだという「前提」、ならびに、絶対に犠牲にならずに帰ってこられますようにという「願い」、そして、絶対に犠牲にならないんでなければ派兵しない!という「決意」だったんじゃないかと思います。
 しかし、アメリカ政府の平定宣言後も「テロ」(アメリカその他「先進国」側の定義にのみ依る)が頻発、アメリカ軍では戦争そのものによる死者より戦争終結後の「テロ」による死者の方が多くなりました。そのような状況を承け、先進国では「イラク全土が未だに「戦闘地域」のままなのかもしれない」という共通認識が生まれた、とわたしは思いました。そしてその「かもしれない」はだんだん「確信」へと変わって行ったように思います。
 すると、公明党以外の与党は、先の前提や願いや決意を凍結し、不問に付すようになり、「自衛隊にはそれでも行ってもらいたい、いや行ってもらわなければならないんだ!」と言うようになりました。それを承けたのか承けなかったのか、公明党の主張からも「論外」が消えた。ここで、当初の、自衛隊員が絶対に犠牲にならないという前提、絶対に犠牲にならずに帰ってくるようにという願い、絶対に犠牲にならないんでなければ派兵しない、という決意は放棄されたのではないかな、とわたしは考えます。
 今もそれら3点は一応派兵にくっついていると思う。でも、それら3点はきっとどうでも良いものだったんだろうと思います。石破氏が「リスクを冒してでも達成しなければならないものがある」(10日)と言ってるように、真の動機は別の3点、「大義を貫くこと」「体面を保つこと」「遺志を継ぐこと」なんだと思う。

■ 2.「大義」

 自衛隊をイラクに派兵する、その大義の第一は「イラク国民のために」です。TV等の報道に接した感じでは、イラクのコクミンはインフラの整備と就職の斡旋を自衛隊に期待しているんだそうです。自衛隊を派兵しようとしている人たちの発想には、最初は治安の安定化とインフラ整備、という目的しかなかったようだけど、今は就職斡旋も任務に加わったという報道に接した記憶があります。
 大義はウラにもう一つあるんだと思います。それは改憲に向けた「実績作り」です。
 自衛隊は、どれだけ憲法解釈を曲げても、条文だけに従って冷静に考えれば明らかに違憲です。しかし現在の国際情勢下では、他のクニを侵略するための軍隊はあってはならんと思うけど、自分のクニを守るための軍隊は各国に必須なのだろうと思います(「守る」の定義は難しいのでおいておくよ)
 クニに必須だと思われる機関の存在がそのクニの憲法に抵触している状態は非常に不健康だと思うので、その点での改憲論争には賛成です。で、改憲論争をするときに、「自衛隊は海外からも日本の軍隊として認識されている。PKO以降、何度も海外に派遣、いや派兵されている。」という実績があるのとないのとでは、そらあるほうが良いんだろうな、と思います。だからそれも大義なんじゃないかと思います、本末転倒な大義かもですけれど。でも、だから、それで派兵したがるという点も否めないんじゃないかなと思います。(‥‥これって穿った見方だと思います?)
 わたしの個人的な考えを申しますと、軍隊を持たないクニは、理念としては素晴らしいかもしれないけれど(クニが理想だけで成り立つんであれば才もそんなには傾かなかったんだろうと思う)、警察機構を持たないクニが想像できなかったり、罰則規定のない法律があんまりチカラを発揮した例を想像できなかったりするのと同様(NHKの受信料を納めよという法律はあるが納めなかった場合の罰則規定がないのであんまり意味がないと思う)、うまく想像できません。なんかもどかしいな。

■ 3.「体面」

 先の(アメリカの軍事的侵略によって開始された)イラク-アメリカ戦争においてアメリカ側についた先進国の中で、アメリカの平定宣言後にイラクへ軍隊を派兵していないのは、おそらく日本だけなんだろうと思うんです。それって、アメリカの属国いやいや同盟国の日本としては「体面」がつぶれることなんだろう、と思います。だから政府としては体面がまるつぶれであるよりは少しくらい立てたいんだろうな、と思います。だから派兵したがるんだろうなと思います。また、非戦闘地域でなければ行かない、と言ったら他の国に示しがつかなくなる!という体面があったんだと思う。テロが怖くて行かない、なんて言ったら笑われるだろ! みたいな。
 つぶしとけばいいじゃん、って思うんですけどね。体面も何も、そもそもウチは軍隊について何の議論もできてないんだから「派兵」できんのです! 自衛隊は必須機関であるにも拘わらずその存在は憲法違反なんです! そんなもんを海外に出せるわけないじゃないですか! って素直にぶちまけて各国の同情や失笑を買い、「まあまあ、別にそれはみんな知ってるよ。しっかり時間かけて改憲論争をすれば良いと思うよ」って言ってもらえば良いのに。よく考えると酷いですよね、アメリカ政府。憲法の草案を日本に「これ良いでしょ。」って見せて、日本がそれを飲まざるを得ないのを知ってたはずなのに、今は今で「おいおい軍隊出してくれよ」って言うんだから。まあ、憲法解釈を憲法の意図とまったく違う方向にねじ曲げても良いという前例を作ったのもアメリカ政府(マッカーサー)だから、つまり本当に軍備を放棄するとは思ってなかったのかもしれませんけれど。

■ 4.犠牲 遺志を継ぐ →紆→余→曲→折→ 報復する

 そのように政府が「大儀」と「体面」を考えていたところに、イラクに派遣されていた外務省の方が二人亡くなったという知らせが入りました。
 ここに至って、イラク全土が危険であり、イラクに存在する全ての人間が危険にさらされていることが明らかになった、と、わたしは考えました。それでもやっぱり与党は「自衛隊には行ってもらうんだ!」と言い続け、公明党もなんでかわからんのですけど「いってらっしゃい。」と同義のことを言い、行くことが決まりました。厳然として存在する危険は存在し続けていることが明らかなのに、それは「ないもの」と見做されるか、顧みないことが決定されたわけです。ふたたび石破氏のコトバを引きますれば、「リスクはゼロではない」ということです。

■ 5.「遺志を継ぐ」

 ここにはたらいたのは、「遺志を継ぐ」ということだと思います。亡くなった二人の方はイラクの復興を本気で考えていた。我々もイラクの復興を本気で考えている。だから彼らの遺志は我々によって継がれなければならない。もちろん「テロ」に屈してはいけない。‥‥そのように考えているのだろうと思う。
 そうであるならば、「遺志を継ぐ」という、耳に心地よい響きのその言葉は、具体的に何を意味し、どのような内容であるのかを検証すべきだと思います。同様に、「テロに屈しない」も。

■ 6.イメージ戦略

 しかし、‥‥便利なのでまた使わせてもらいますが、石破氏はまるでシャンプーその他のCMのようにイメージで押して来ます。無知蒙昧な我々を相手にそのようなことをして、彼はとてもずるいと思います。
 「リスクを冒してでも達成しなければならないものがある」と言われているモノは、一体なんでしょう。コレを曖昧模糊なイメージのままで云々することには、まったく意味がありません。云々すべきは、石破氏が何をどう考えているのかです。石破氏の考える「リスク」とは何か。この場合の「冒す」とは具体的にどういう行為を指しているのか。「達成」とは何を指しているのか、それには段階があるのか、あるとすればどのようなモノなのか、そしてどの階梯まで上がったら「達成」と言えるのか。「しなければならない」理由は何か。
 いろいろな意味を持つゆらゆらした輪郭のコトバを駆使して喋るのは、‥‥ブンガク的な場面ではとても良いと思います、イメージが広がるのは。でも、政治的なことを語るべき場面でそのようにイメージを広るのは、あんまり良くないと思います。なぜなら、曖昧な輪郭は聞き手に幻想を抱かせるからです。そしてその幻想に話者が責任を持つ義務はないからです。コトバを誤解した責任は誤解した人にしかなく、誤解させた側にはないからです、この政府の場合には。それは、ムチャクチャなことを言ったりやったりしておいてイケシャアシャアと「理解してほしい」と言ってそれが通ってしまうという現実を見ても明らかだと思います。
 まず、亡くなった彼らの「遺志を継ぐ」ということと自衛隊の派兵とは直接的に結びつくもんではありません。彼らがイラクのためを思って行動していたのは事実だけれど、そしてイラクへの自衛隊派兵もイラクのことを思ってのものだという大義が成り立つけれど、だからと言ってこの二つを完璧に同一線上のモノであると考え、自衛隊の派兵が彼らの「遺志を継ぐ」ものであると考えるのは短絡的に過ぎるでしょう。ヒトを送ることにそこまでこだわらなければならない理由がわたしにはわかりません。インフラ整備のための物資を送るとか、物資調達の資金を送るとか、他に考えられることはなかったのか。最初に自衛隊の派兵ありきでは「体面」しかないのではないだろうか。

■ 7.「続かねば!」

 大義名分と面目を保つために、そして外務省の二人の遺志を継ぐために、イメージ操作を駆使して世論からの全面的な支持を受けて派兵された自衛隊員の中から一人でも犠牲が出たら、‥‥それも後進によって継がれなければならなくなるでしょう。
 それは国家神道の本山としての靖国神社が再三指摘を受けている無限再生産装置さながらです。それは『BOB』です。アメリカのやり方です。(ドラマ『Band of Brothers』の最終話では、アメリカ政府が行う戦闘行為において、末端の一人一人の兵士のモチベーションは、仲間(brothers)が敵に殺されたからその報復をするということによってのみ高められるものであることが明示されている。)
 わたしはそれではいけないと思います。

■ 結論

 政府は、自衛隊員に犠牲が出た場合、政府としてはどこまで行くつもりなのかを明示していません。派遣される自衛隊員がひとりひとりマイクを向けられて小気味よい受け答えをしている、その格好よいイメージに頼り切り、何もかもをまったく行き当たりばったりでやろうとしている。それが非常に腹立たしい。

 政治は生ものだと思う。確定した王道なんてどこにもないだろう。問題が微妙であればあるほど政治的決断は難しくなってくるだろう、時間もかかるだろう、言ってることと言ってることが5秒で変更されることも時と場合によっては必要となるかも知れない。

 だけど、あまりに優柔不断(≠臨機応変)で日和見主義だと、さすがにうんざりしてくる。

 現状のように何の覚悟もないままで派遣して良いとは思いません。政府は、他国の諜報機関に向き合ってるわけじゃないのだから、コクミンに対して、もう少し手の内や考え方を明らかにすべきであろうと思います。イメージなどの抽象概念を駆使してスライムみたいな「コンセンサス」を作り、事が起こったら「ほら!みんなこのカタチで納得したんだから!」と言ってそのスライムを自分の思うカタチに造形して他者に「理解しろ!」とゴネるのはいかんと思う。

◇ もごもご


 やっぱりちょっと難しいです。もう少しなんとかしてからアップしたかった。明日も頑張ってみます。昨日も今日も、要旨は「何も規定せずイメージだけでなあなあでやってると大変なことになると思う。それは避けたいと思うんだ」ということです。

 ラグビー大学選手権の準決勝、ひやひやしました。同志社強かったです。早稲田はフォワードとスクラムが相変わらず強いので点差だけを真に受けて心配する必要はないと思う。でも数分とは言えリードを許したという汚点は残る。ともかく今年のチームは去年ほど強くはないということかもしれない。一方、関大は問題なく強い・うまい。さすがだ。今年の決勝はどうなるのかなあ。正直「わくわく」より不安の方が大きい。いや去年もそうだったんだけどね。

 風邪はほとんど治ったみたいです。もう一日くらいゆっくりして、ぼちぼち部屋掃除したり本読んだりして、様子を見ようと思います。久しぶりにほうれん草をゆでました。もやしとニンニク、キムチいっぱいの味噌ラーメンに載っけていただきました。おいしかったです。

 ではでは。


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反省 [政教分離]

 シンポジウム・討論としては、恐らく参加者の多くが「時間が足りない!」という思いを共感できたでしょうし、場内からは骨太な、どちらかというと右系に分類される発言もいっぱい出たし、それを受け取ることも出来たと思うし、また、最後にそういうふうに言うのコロッと忘れちゃいましたけど、何か「ココから始めよう」というモノを受け取った方もいらしたように思えたし、わたし自身そういうものを受け取れたので、成功だったと思います。

 司会は間違いなく失敗ですね。

 まず最後に「ココから始めましょう」的なまとめを言うべきだったのにそれができなかった。これは司会まったくあかんです。

 討論会の中でも、場内の意見を冷静に俯瞰して交通整理することを目標にしていたはずなのに、そのときはそういうつもりの発言だと信じつつ、実際にはまったく場内と同じ高さ(俯瞰が出来ていないということです。わたしの持ってる意見が高い位置にあるとかわたしの発言が内容において高い水準からのものであるべきだった、ということではないです。)を非常ーにエラそうな態度でワンワン言ってしまったり、場内からの発言やパネリストの発言にかぶせるように発言して他の話者のクチを封じようとしたり、とんでもなく失礼なことを言ってあわててフォローしようとして見苦しさこのうえなかったり、とんでもなかった。

 行司だったはずなのに、取り組みが始まったら着てるモノ脱いで、そしたら実はまわしまでつけていた、みたいな違和感があったと思います。

 ううむ。
 はずかしい。
 スミマセン。

 では。(>_<。)


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先輩も後輩も‥‥ [政教分離]

■ 後輩
 イベントサークルを主催しつつ婦女暴行をいっぱいしていたらしい、接点が全然ない遠い遠い後輩がこないだタイホされていました。

 3回も学部に入学するってのは、よっぽど勉強が好きなのか、それともよっぽど居心地がよかったのか、 ‥‥ まあ学問がしたくて大学に通ってるんじゃなさそうに思えます(違ったらごめん)。サークルは楽しいですからねえ。

 わたしは先輩や同輩や後輩がものすごく本を読む人たちで、かつ評論や着想も的を射て刺激的で面白かったし、人間的にもいろいろ影響受けたと思うし(と俺が言うのは変かもだが)、仲の良い3人で車乗って北海道行ったり九州行ったりするのも楽しかったし、 ‥‥ やっぱり居心地はよかったです。でもその居心地の良さはわたしが作ったモノではなく、友だちの誰かが作ったモノでもなく、ヒトが集まる中で自然に「できた」、もしくはその当時で20年以上続いていたそのサークルに「あった」もんだし、自分が居座ったとしても友だちが卒業したらそこにはなくなるタイプのものだと思ったんだが。。。

 彼は主催しているから、大人数のパーティというのは個人的にはまったく興味がわかないんですが(まあそれは個人差。)、その居心地の良さを作り出したのは自分だったのかな。だからそれをケイゾクするために大学に居続けたんでしょうか。あんなでかいイベントは準備や運営のコツがつかめないと主催し続けていくのはなかなか難しそうだし。

 それでなぜ婦女暴行に行ってしまったのかはわからんなあ。ステロタイプな物言いをすると、「サークルをワンマン的に主催する中で『自分は何でもできる・何をしても許される』という似非の全能感を育んでしまった。そしてパーティ以外の空間でもそれを味わい続けようとしてしまった。」みたいなことになるのかな。

 酔っぱらって動けなくなってる女性は介抱すべきであって暴行すべきではないと思う。わたしは嫌がられたらお互い裸でもできませんけどねえ。。。また、反応がないとまったくつまらないので、それもできません。不便と言えば甚だ不便かもだな。

■ 先輩
 ‥‥火曜日は火曜日で、前総理の、これまた接点がまったくない遠い遠い先輩である森氏が「子供を1人もつくらない女性の面倒を、税金でみなさいというのはおかしい」【共同通信社】などと言ったそうです。

 女性団体?が女性差別発言だと言って抗議文を提出したのは当然の反応として、わたしが問題にしたいのはもっと根本にあるかもしれない、森氏の考えている「クニ」と「コクミン」とのある「べき」姿、もしくは彼の考えているそれらのいま「ある」姿、です。

 彼は今までに右的な発言を数多く行っています。失言と言うより彼の思考回路そのものがダイシッターイ!かもしれないと時に 確信してしまう 疑いたくなるシロモノを頭蓋内に抱えているようにわたしには思える彼ですから彼が何を言ってもわたしが驚くことはもはやないんですが、ええと。

 森氏の中には、「コクミンはクニに対して奉仕すべきである。多少の不便があったとしても、コクミンはよいクニを実現するために我慢すべきである。」という考え方が基本的な水準で保たれているのだと思います。

 ハイ、決めつけかもです。ただ、靖国問題や玉串料訴訟問題を考えていて宗教と国家権力との関係を考えなければならないことに気づいて考えている時や、有事法制の問題を考えていてコクミンの権利と国家権力の強制力との関係を考えている時などに、わたしはわたしをはじめコクミンの権利が最大限に尊重されるべきであり、政府や行政などの組織がもつ権利は最小限の水準に抑えられるべきだと考え、そのためにはいろいろなことが問題になるけれど、順を追って解決していかなければならないなと考えていること、そして、そうは考えず逆に考え、国家権力がコクミンを最大限に管理する方向で運んでいけばすべてうまくカタがつくと考えている人がいるようだ、ということに気づかざるを得ません。

 森氏はそっちの、わたしのようには考えない考え方の人で、その考え方に則ってしゃべるから、だから目立った「失言」を繰り返しているんじゃないだろうか。

 わたしは、森氏のような考え方では、政治はうまくいかないんじゃないかと思います。つまり、優秀なモノであるオカミと馬鹿なモノであるコクミンとが確固たる対立項として存在し続け、オカミがオカミの考える理想を一方的にコクミンに与え、コクミンが何を言ってもまるであやすようにして相手にせず、時に暴力も用いて、パターナリズムで「教育」し「啓蒙」し続けるのが理想の政治であると考えるのは、なじみません。

 そのオカミが理想とするモノがなぜクニ全体の理想たり得るのか? よいクニとは何か? 国家の諸機関は何のために存在しているのか? 国家というのは、コクミンというのは、それぞれどういう現象なのか? ‥‥というモノについての考え方が、森氏とわたしと、まったく違うのだろうと思います。

 そして、わたしはわたしの考えているようなモノの方が、森氏の考えている(とわたしが考えている)モノよりも遙かによいモノであると考えています。

 というわけで、女性に対する森氏の差別発言という表層的な大問題も問題にしつつ、そっちの、わたしのような偏向的な考え方で斜めから見ていると出てくる問題についてもケイゾクして考えていきたいな、と思っています。

 また、彼がとんでもない(とわたしには思える)ことを言ってるVTRの中で、森氏とともに壇上にいて彼の発言を聞いていたヒトが「そうそう!」と相槌を打っている場面があったというのにも、なんか非常にうんざりしてしまいました。

■ まとめ(?)
 今まで書いてきたモノと少し離れるかもしれませんが、タイホされた後輩と、女性差別の発言をした先輩、両方とも男なので、それをもとにして彼らと女性との関係性について考えてみますと、

 ‥‥

 あの後輩は女性に暴行などせずオナニーしていれば良かったんじゃなかろうか。自分がセックスできる状況になくオナニーするのもイヤならば、手続きを経て正しく(?)恋愛し、イベントを主催していたように、二人でお互いに求め合える状況を作り上げていくように努めなければならなかったんだと思う。それもイヤならどっかお金を払ってそういうコトさせてもらえるところに行けばよかったんじゃないだろうか。

 いやがるヒトに無理矢理やらないと快感を得られない、という性的偏向ができてしまているのなら何を言っても仕方ないかもしれませんが。しかしそういう場合でも自分で自分のそういう状態を問題に思えるのなら、もっと「正常」っぽいところへ自分の偏向を持って来る努力をすべきではないかと思う。少なくとも、「相手に申し訳ないと思っている」と供述しているという報道があるので、今後はそういう努力をするのだろうと思います。償おうと思って償えるモノでもない気がしてならんけど、自分があって相手があると考えるのではなく、自分が償うために相手の気持ちを聞くとかそういうんでもなく、自分を真ん中に置くんでなく、あらゆる意味であらゆる水準で相手が納得してくれる方法を第一に考えて、そして償える方法を探して考えていってほしいです。

 あの先輩はあの先輩で、女性に子どもを産んでもらうんではなく人工子宮でも何でも開発してそれに子どもを産生させれば良いんじゃないだろうか。そしてすべての女性を税金で援助しないですむ状況にしてから、何か妙なことを口走れば良いんじゃないだろうか。つまりずっと妙なこと口走らないですむように現状をしっかり把握して欲しいです、どうやら政治家らしいので。

 彼の中には、きっと、「子どもは作るモノであってもうけるものではない」という考え方があるのだろうと思います。また、あの発言をした時の彼にとっては、「女性はクニの中で子どもを産むための機関として位置づけられているにすぎない」ということなんだろうと思います。その文脈に欠かせないクニそのものがどういう現象であるのかは、彼にとってはさして問題にならないんでしょう。なぜそれを考えるべきなのかさえ彼にはわからないかもしれません。

 ‥‥‥

 二人とも、一人一人の人間と接し、それをもとにして行動したり語ったり、お互いの関係を築き上げたりしようとしていないように思えます。他者を自分の目的の道具としてしか認識できないのはどうかと思う。

 (これでまとまったのかな?)


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フィクションか否か [政教分離]

◇ フィクションか否か

 以前、ココの左側にある「論文」から行ける「靖国を問う」関連の、二年目のシンポジウムに観客として参加しました。パネリストの人がさまざまな立場からさまざまな意見を述べ、司会もそれらの意見を収斂するカタチではなく自身の思いを語るという方式で第二部を始めたものだから、何をどう語り合い、受け取り合い、その場にいた証(あかし)を一人ひとりがどのように持って帰れば良いのか、それがなんだかよくわからなくなってしまったんですが。

 そのときに、会場からの意見が募られて発言した方の一人目か二人目の意見が、わたしなりに感情的に要約して翻訳すると

親鸞なんて史実的に存在していたか非存在だったかわからない。まったくわからない。だから、浄土真宗の立場から靖国の問題を語るというのはまったくもって無理な話だ。きみたちは本当にレベルが低いな。

 という感じでした。

 親鸞(1173-1262)が実在していたことは、「恵信尼文書」と言われる、親鸞の妻だった女性が親鸞と自身との間にもうけた末子、覚信尼にあてて、親鸞が死んだ後に書いた手紙が発見されて、歴史学の分野では確定しています。述作もあるし。直筆文書も残っているし。

 その手紙が発見される前には、歴史の表舞台にまったく「親鸞」という言葉が出てこないものだから、「彼の存在はまったくのフィクションなんじゃないか?」という意見が述べられ、それに追随する論文も何個か発表されて、「フィクションだった、かもしれない。」ということになりかけていた。

 手紙が発見された後には「実在」で確定したわけです。また、実際には、それ以外にも「親鸞」という名前になる前の親鸞が「善信」or「善信房」という名前で公文書に登場していたりする。

 だから、わたしには、上のような意見を言った彼が、歴史研究の文献を中途半端に読んで、中途半端に受け取って、中途半端に考えて、それで「どっかーん」と喋った、ようにしか思えなかった。

 「何を言ってるの?」的に反論して、彼も「いや、だからね‥‥‥‥‥‥」的に語ってくれたんですが、彼が何を言いたいのか、全然わからなかった。

 たいてい人間って「何か」イイタイコトを言うために、あんまり言いたくない、あんまり重要だと思えないモノを喋ると思います。そう考えると、彼のやっていたソレとわたしの想定していたソレがあまりにかけはなれていたのだと思います。多分お互いに「こいつアタマ悪いんじゃないか?」って思ってるうちに、アジア・太平洋戦争に兵士として参加された方がある意味では特殊な立場から感情的な意見をぐるぐる何度も繰り返し、他の立場からの意見を寄せ付けたくないという勢いで喋ってしまったので、ほんとにまったくわけがわからない、消化不良の椿事みたいになってしまったんですけど、そのシンポジウム。

 2月11日って「建国記念日」かー、って思って、それを思い出しました。

 フィクションか否かは、さほど問題じゃないと思います。それを自分はフィクションだと思っているのか否か、それによって何をどう表現したいのか、それが問題なんだと思います。

 上に出てきた彼の場合は、わたしから見れば、彼が調べたり読んだり見たりした内容を、この世での唯一で厳然たる事実だと考えてしまうクセがあったんだと思う。わたしもしょっちゅうそういうことをやってるけれど、自分だけが信じてるのかもしれない内容を疑う心構えは、一応持ってるつもりでいるし、今まで信じていたことと違う内容を誰かが言ったら、可能ならば、わたしの意見や相手の意見を科学的(!)な方法で裏付けしたり打破したりしようと試みる。

 しかし彼はそれをしない・させないタイプの人だったように思う。彼が信じてる内容をわらわらっと語り、「だから××なんです」的に言い、その「××」の内容に共感するヒトはすべからくわたしの意見の前提をまったくの事実として受け容れるべし! 的に考えている、‥‥そんなふうに思えた。

 何かイイタイコトを言うのは、勝手だと思う。別に前提なんてどうでもいい。いや、大事なんだけど、どうでもいい。ただわたしの場合は、ヒトと意見をぶつけあう時の前提として掲げている理想が気づかぬうちに現象学「的」になっているから、彼のような、人文科学の分野、歴史解釈、宗教的信条・心情などの分野にも、自然科学的な、何か唯一で絶対的なモノがあるんだ(実際にはこんな単純じゃないけど)、的に安直にダサダサに考えてるように思えて、そしてそこから何かを語ろうとしているように思えて、他人が自分よりもモノを知ってないことを前提にして語っているように思えて、

 イヤぁな気分になりました。

 フィクションか否か、それを自分はどう受け取るのか、そして何を語るのか。

 そして、他者は自分の語っている内容を受け取って、どう考えるのか。あるいは、他者は自分が向き合ってるコレを別の角度から見てどう感じ、思い、考えるのか。

 それを突っつき合わせていく、そういうのがわたしは好きです。でもそういうのがまったくイヤでイヤで仕方ない、というヒトもいるんだろうなって思います、っていうか、たぶんわたしを筆頭に、こういうふうに考えているけれども実際には出来ないでいて、時々ふと気づいて「うがっ(>_<。)」って言ってる人が多いんだろうな、って思います。

 以上、建国記念日という、フィクションか否かを考えるよりも、そこから何をどう考えるのか、何をどう考えた結果として、自身は他者とどう考えるべきなのか、というのを考えるのは楽しいな、という意見でした。

 ‥‥そして彼は龍谷大学生でした。親鸞が実在してなきゃ存在してないんですけどね、龍谷大学って。それを考え合わせると、ほんとにほんとに腑に落ちないです。わたしの受け取りが滅茶苦茶なレベルで間違っていたのかもしれません。ある本は冒頭に「実在していたかいなかったかわからない」的に書いてるんですよ、たしかに。でもその本自体が親鸞さん実在してなきゃおかしくなる立場から書かれているから、 ‥‥彼はその本のその箇所だけ拾い読みして悲しい水準で納得し、筆者の前提とかをまったく考えなかったんじゃないか、ってふうにも思いました。

 以上、11日の日記にします。書いたのは15日の3:00です。


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Band of Brothers [政教分離]

◇ B O B

 以前3枚目まで借りて見ていた『BAND OF BROTHERS』【HOME】DVDの4枚目と5枚目を借りてきて、4枚目を見ました。

 先の大戦でヨーロッパ戦線に派遣されたアメリカ軍、その中の精鋭、空挺部隊「E中隊」の話です。第1話は本国での訓練の話がメインで、いよいよ降下します、というところで終わり、‥‥最終10話のタイトルは『戦いの後で』ってなってます。

 前にも書いたように、やっぱりドリームワークスの特撮やCGは半端じゃないと思います。『プライベートライアン』が10時間モノになったと思えば間違いないくらい、すさまじくえぐいです。シナリオその他もすんごい練られてます。

 実際の戦闘記録や証言をもとにしてるわけだから、各話の冒頭で自分たちの体験を語ってるおじいさんたち生き残りの方たち以外は全員バタバタ死んでいく。で、その死に方が、 ‥‥たぶんぎりぎり「911」の前に作られたせいか(放映は、アメリカでは「911」前から後にかけて)、どっかんどっかんやって勇ましいだけの国威宣揚的でしょーもない美談めいた悲劇にはなってない。

 「この人は何のためにうまれて来たんだろう?」
 「この人の親はどんな願いを込めてこの人をうんだんだろう?
  どんな願いを込めて育て上げたんだろう?」
 「この人の恋人は何のためにこの人と知り合ったんだろう?」

 そういうのを感じさせてくれる。考えさせてくれる。

◇ クニのため

 ‥‥たとえば「クニのため」という、たった一つの目的に収斂していく死に方としては描いていない。こういう事実が積み重なって彼は死んだ、彼は殺した。そういう描き方になってる。濃厚な戦闘描写の合間に、実は実際に生きていた人間が戦っていたんだよ、というのを感じさせる ‥‥ なんて言うんだろう、証明していると言うのかな ‥‥ 前線を戦っている部隊に持ち上がる具体的な問題や、そこで育つ濃密な信頼関係とか、そういうのももちろんあって、そういうのはすごく問題を感じさせたり格好良かったりるんだけど、

 総じて ‥‥しんどい。

 彼らが死んだり殺したり精神的に変になったりするのは、もちろん「クニのため」ではあると思う。でもそれは靖国神社を語るときに語られている「クニのため」と同じ内容なのだと思う。

 つまり、他の可能性を許さない、たった一つの特定の思想の再生産装置として靖国神社が空前のはたらきを見せてしまったから、「目的」としての「ため」ではなく、「理由」としての「ため」にココロやカラダを動かした、それと同じ内容の「クニのため」なのだと思う。

 なんかいつもにもまして文章がすっきりしないぞ。

 人が死んでしまうのは、理由や原因や要素がさまざまに働いた結果だと思う(もちろんいちばん大きな理由は「生きてるから」)。
 それらの理由や要素 ‥‥ この時代に生きていたからとか、このクニにうまれたからとか、そういうたくさんのモノの結果の総体として、人は死ぬ。
 そして、それらの理由から、避けられる要素があるならそれを取り除く努力をした方が良いと思う。でも、その時に理由じゃなく目的だけを見て、すべての理由を放り出して目的だけを考えさせる装置というのは、怠惰、かつ卑怯だと思う。

「彼のために」 ←for
「彼が実現しようとしていた目的のために」 ←for「あなたも 戦おう!」
「彼の遺した思いのために」 ←for
上の「for」は「because」に、 「戦おう」は「死んでしまう」に、 それぞれ変わります。 というか引っくり返すとそのままだと思います。
 
「彼のために」 because→
「彼が実現しようとしていた目的のために」 because→「あなたも 死んでしまう!」
「彼の遺した思いのために」 because→

 上の三つの「ために」は目的、下の三つの「ために」は理由・原因です。一部が隠蔽されたり無視されたりすることもあります。また、「彼」は「クニ」になったりします。でもって、同義になったり、都合良く片方が消されたりもします。もちろん、「クニ」は「政府」だったり「郷土」だったり、はたまた「家族」だったり、ムチャクチャいっぱいの意味を持ったコトバですけど、そんなのはおかまいなしであることがほとんどみたいです。

 何も、彼の遺した思いをそのまま引きずって同じやり方で実現しようとするだけが、彼の遺した思いをかなえる唯一の手段じゃないと思う。別の方法や可能性を模索しても良いと思う。そして、他の方法や可能性の模索を許さない装置は、ムチャクチャな害悪だと思う。

 ホワイトハウスでタカ派の最尖端と言われている人たちは、みなさん従軍経験がないんだそうです。わたしもないけれど、想像力でカバーできるところは確実にあると思う。というかカバーしなきゃあかんでしょ。こんな良いドラマがあるんだぞ。見てくれよ、見て考えてくれよジョージ。

 と言いつつ俺はまだ4枚目、第8話までしか見てないんだけど。

 他人のことはそんなに言えないけれど、想像力のないヒト・ある一つの想像をしたらそこから一歩も動けなくなってしまうヒト・自分がしてしまった嫌な想像図を打破するために他の視点からの話を聞いたり聞こうとしたりしないヒト・陳腐な想像を他人に押しつけてこっちの話を聞かないヒトって、可哀想だと思います。

 しかし、そんな可哀想なヒトにふりまわされて、死んだり殺されたりしてしまう人の方がもっと可哀想だと思う。

 うん、言い訳にしかなりませんがまとまりません。


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