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公式参拝に今日もふと思う 2。 [政教分離]

 小泉さんが靖国神社に参拝する。参拝の真意を聞かれ小泉さんは「平和を願っての参拝です」的に抽象的に言うのみで具体的には一体どのように考えているのか伝えてくれない。だから彼の真意を知ることは出来ない。出来ないけれど、真意がどうであれ、小泉さんの行為は小泉さんのココロから離れて結果として評価され、結果として意味を生じる。

 小泉さんの靖国参拝という行為には

1.Aクラス戦犯に頭(こうべ)を垂れている。
2.他の戦没者に頭を垂れている。
3.一宗教法人に参拝している。

 以上少なくとも三つの意味がある。

 彼の参拝に対して「やるべきだ」と言う人がいる。「それはいけない」と言う人がいる。その人はどれに対して「すべき」「いけない」と言っているのか、言っているつもりなのか。

 何かややこしい問題がある場合、問題が含んでいる様々な要素を「くちゃっ」と固めたり丸めたりした上で吟味した方が良い場合もあるし、そうではなく、絡んだところをほどいて、貼り付いてるところをきっちり剥がしてから吟味した方が良い場合とがあると思う。

 靖国神社への参拝という問題は、後者だと思う。

 Aクラス戦犯の存在や行為をどう考えるかは難しい問題だと思う。

 彼らは考えた。行動した。結果えらいことになった。動機や行動の裏付けとなった情報量の多寡について見解は分かれるがその結果が「えらいことになった」というのは言えると思う。

 彼らに限らず、我々の日常に於いても、たとえ善意に根ざした行為であっても結果が無茶苦茶に終わった場合にはその責任を取る必要がある、それは言えると思う。

 ただ彼らの場合、その「責任」の取り方・取らされ方が裁判まで含めてこれまた逆に滅茶苦茶であった、それも言えると思う。

 ただ、裁判が滅茶苦茶だったからと言って彼らが裁判で扱われたたくさんの問題から完全に無罪になれると考えるべきではないと思う。

 はい、今日はココまで。(続きはあるのか。)


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公式参拝に今日もふと思う 1。 [政教分離]

 中国政府が年中言ってる「日本政府要人の靖国神社参拝反対!」は、単に「日本政府は公式にAクラス戦犯を敬うな!」という内容の言い換えに過ぎないような気がしてきました。

 たぶん中国政府は、靖国神社からAクラス戦犯が「分祀」されれば、首相もその他大臣も誰も彼も、ひょっとすると江戸城跡に暮らす人たちさえもが靖国神社に参拝しても「問題ないよ」という態度を取るんではなかろうか。

 (→ わたしにとっては信教の自由を蔑ろにされ続けることなので、政府要人による靖国神社への参拝はものすごく問題であり続けます、たとえAクラス戦犯が「分祀」されたとしても。)

 その一方で、例えば、「分祀」(仮定として)されたAクラス戦犯の行為全体を完全に「是」とし彼らを「顕彰」するための政府施設が出来たとして、そこに政府要人が参拝し出したとしたら、それはそれで今までのように問題視してあれこれ「外交カード」みたく切り出すんではないだろうか。

 もしそうなったとしたら、中国政府が年中言ってる「日本政府要人の靖国神社参拝反対!」は、単に「日本政府は公式にAクラス戦犯を敬うな!」というのの言い換えであり、むしろ真意とは違うことを言ってるような気がし始めました。

 靖国神社への参拝を一宗教法人への政府要人の参拝の問題と見れば、「政教分離」という問題、つまり内政問題です。なので「神社への参拝」を前面に出して問題視する態度を外国政府が取ったとしたら、それは内政干渉に当たるんではないかとわたしは考えます。かつ、内政干渉ってあんまり良くないことだと思っております。

 だから中国政府は要らぬ誤解を避けるためにも「靖国参拝反対!」と言わず「Aクラス戦犯を公式に敬うな!」的に言った方が良いと思います。


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「名前を伝えただけ」 ‥‥ orz [政教分離]

靖国合祀 韓国人の訴え退ける(NHKオンライン)

この裁判は、旧日本軍に動員されて戦死し靖国神社に合祀された韓国人117人の遺族が「国が戦没者の名前を神社に伝えたため、勝手に合祀されて人格を傷つけられた」などと訴えて、国に損害賠償などを求めたものです。判決で、東京地方裁判所の中西茂裁判長は「国は戦没者の名前を伝えただけで、神社と一体となって合祀を決めたわけでもなく、人格を傷つけるような行為をしていない」と指摘して、訴えを退けました。
NHKオンライン

 高裁の判事にも愚か者はいるということなのでしょう。愚か者ばっかりではないことを心の底から希望するけれど、うーん、どうかなあ。

 宗教と人間との関わり方について無知なヒトや、いつまでも無知なままで居続けられるし無知を克服する必要もまったくないと考えて疑う術を持たないヒトは、宗教が絡んだ裁判で判事をするとか裁判長をするとか、そういうことをしてはいけないと思います。もしやってしまったらそれはカテゴリ・エラの一つだろう。世界は法律だけで動いてるわけじゃない。

 以前『脱・宗教のすすめ』という面白いタイトルの本があっ(て間違って読んでしまっ)たんだけど、その本の内容は宗教の何たるかをまったくわかっていない・わかる必要もないと思いこんでる人が無知のたけを無責任に書き殴っただけのそれはそれは酷いもんでした。宗教を知らない人が「脱・宗教」などできるはずがないし、それをすすめられるわけもない。稀代の悪書。類人猿の自動筆記。マニアックの暴走(覚醒)にも遠く及ばない。「知らない=必要ない」? そんなわけはないのです。

 靖国神社の「合祀」は靖国神社という一宗教法人がその方法だと主張する手順に従って、ある一定の決まりに則って行われるわけです。そのために必要なのは、まず第一にその人の名前なわけです。だから誰かが何らかの意図をもって別の誰かの名前を靖国神社に伝えるということは、イコールで靖国神社にその人の「合祀」を許したということにもなるわけです。厚労省が「そんなつもりなかった!」と言ったところで今までそういうやり方でずっと「合祀」させて来たという事実があるんだからそれは通らない。「未必の故意」だ。

 いくら愚鈍で愚鈍で仕方ないとしてもそういうコンテクストを読み取れないわけではないんじゃないかと思いたいんだけど、もし本当に読み取れないのだとしたら、この裁判官は過去の重要判例なんか覚えてないで良いから取りあえず裁判から遠く離れた分野の読書などを大いにすべきだろうと思います。論理と前例も大事だけど文脈も大事なのですよ、人間が動くときには。本はこのさい何んでも良いと思います。(と言いながら机の上を見やり)‥‥そうだなあ、『ゲド戦記』か『肉体の悪魔』あたりが良いんではないだろうか。『ワン・ゼロ』や『きみのカケラ』も良いです。最近読んだ『ひらめき脳』も面白かったです。「アハ・ピクチャ」がいつまでもわからなくて悲しかったです。

 今日も寒いのでストーブを焚きました。


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無知や怠惰から来る内政干渉 [政教分離]

 他の追随を許さないほど強権的で排他的・致命的で文字通り「殺人」的な政教一致政策を採るクニの外相が、政教分離で語らねばならない靖国神社をめぐる問題をまた矮小化して語ったようです。

 Aクラス戦犯をめぐる問題も靖国神社にはあるにはあります。しかしある特定の宗教的信条にしたがった地点からこの世を解釈したときにのみ意味のある現象を「分祀」したところで、一宗教法人に対する「公式参拝」が容認されるものではありません(そもそも「合祀・分祀」は神道的世界観に則った言葉です。コレを使って語るかぎり解ける問題も解けなくなる気が、今やっとしてきた)。

 ということは靖国の問題を戦犯の合祀・分祀だけで語り尽くせるかのように装うのは怠惰であり、もし本気でやってるのなら無知でしかないのです。

 このクニの中だけで語ってるんでも十分ヤヤコシイのに、この問題をまるで解決できるかのようにうそぶいて外野から口を出す彼らの態度は非常に煩わしい。まるで「わかってるから語れるのだ」的に振る舞う彼らはもちろん何もわかっちゃいない。わかっていない問題に首を突っ込めば突っ込むほど却って話をややこしくするだけなのだから、彼らはむしろこの問題について一切語ってくれない方がわたしはとても嬉しい。

 もちろん、他国の内政干渉に対抗する唯一の手段がいまの首相の言動のすべてを完全に容認することであるはずもありません。先人に対する心からの追悼と、首相の靖国参拝を拒否することとは、実は完全に両立します。


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問題の矮小化 [政教分離]

 小泉さん、社民党の議員さんが中国政府や韓国政府のまるで「顔色」をうかがうような質問をしたのに対し「国内の施設に行くかどうかは、外国の首脳に言われる問題ではない」と言って答えたそうです。

 【NHKオンライン】 【つづき】

 先日(1月25日)の共産党も今日の社民党も、どうも靖国神社への参拝を外交上の小さな問題にしたがってるふうにしか思えないような代表質問ばかりするのは非常に問題です。

 靖国神社の問題が「Aクラス戦犯をクニが敬うべきかどうか?」という問題で終始するものであるなら、社民党や共産党がやっている代表質問にはまったく意味がないとさえ言えると思います。またそうでなくとも政教分離の問題を問題にしない質問にはまったく意味がないと思います。

 それとは別の問題になりますが、靖国神社への参拝には政教分離の問題が常に絡むので、小泉さんの「国内の施設に行くかどうかは、外国の首脳に言われる問題ではない」という回答は、ちょっとおかしいと思います。

Q.それはどういうことですか?
A.靖国神社は「国内」の単なる「施設」ではないということです。再生産のための「装置」であり歴とした宗教的な「施設」であるということです。自分がそれらの事実を無視したいから、あるいはそれらの事実を知らないからと言って、それらの事実を無視した行動を取ったりそれらの事実に対して無知な行動を取ったりすればそれらの事実が消える、というわけでは全然ないのです。

(ああ。政教分離がからむとどうも説教くさくなっていけない。「ムチマロ」という人がいましたね、昔。ムチムチだったのか無知無知だったのか、いやどっちでもないか。)

 小泉さんの答弁からは彼の中に「火のないところに火焔瓶を投げ込まれた」的な憤慨のある旨が感じられるわけですが、この問題に関して火焔瓶はあり得ないし発煙筒さえもあり得ません。件の(九段下の)神社が単なる「施設」であるなら外交問題にはならないし、政教分離の問題も絡みません。しかしあの神社は単なる施設ではないのです。参拝者にある特定の礼拝方法を求めている時点で宗教施設です。

 神社の「柏手」は本願寺派やその他の仏教がおこなっている「合掌」と同様に宗教行為です。さらに、ある時代にある目的をもって作られた特殊な現象を礼拝の対象としているという点では特殊ですが、それでも靖国神社は歴とした宗教施設です。

(それにしても「合掌」を「合唱」と誤記する場合の何と多いことか。)

 靖国神社の場合、さらに別の問題が絡みます。それは「再生産装置」というコトバで十全に象徴的に説明される問題です。

1.誰かがある特定の「理由」で死ぬ。
2.別の誰かも死ぬが、その「理由」は1.とは違う。
3.1.と2.が続いていく。
4.やがて、誰かがそれらの「理由」を分類し、特定の「理由」で亡くなった人のことだけを讃える施設を作り、その「理由」を明確化する。
5.その「理由」で死ぬことが明確に奨励される。

 これが起こっているのが現在の靖国神社です。だから「再生産装置」なのです。わたしがいま疑っているのは、イラクで誰かがある特定の「理由」で死んでしまうまでアレが続くのではないか、ということです。彼らは無し崩しの実力行使のためにソレを待っているのではないか?

 この世には時間が解決する問題と、時間が解決できない問題とがあります。当時は大東亜戦争と呼ばれ、現在では太平洋戦争と呼ばれている、わたしは常にカッコ付きの「大東亜戦争」、またはアジア・太平洋戦争と呼ぶべきではないかと思っている戦争が戦われていた当時と現在とでは、まったく変わってしまった価値観がある。そういう価値観の方が多いかも知れない。
 しかし、そうじゃなく、当時も今も変わらない価値観もある。
 だからと言って、「変わっていない」というただそれだけの事実を以てそれをそのまま「良い」と同義と勘違いして良いってわけではない。

 政教分離のほかには、靖国神社にはそういう問題があります。

 政教分離の問題と特殊再生産装置。それを単なる外交問題に矮小化するための質疑応答が永田町で行われている‥‥。そんなことはないんだろうけれど、わたしには彼らがグルであるように見えます。

 国会で問題にされないからと言ってその問題が存在しないってわけではありません。しかし、わたしたちが送り出した200人以上の代議士の中には、政教分離の問題がわかって、それを国会で質問できる立場にある人が一人もいないってことなのでしょう。

 ぶつぶつぶつ‥‥。なまんだぶつぶつぶつ‥‥。


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あの総理大臣に、この外務大臣。 [政教分離]

 麻生太郎さんが、「総理よりも天皇が靖国神社に参拝すべきだ」という旨の発言をされたそうです。

 英霊からしてみれば、天皇陛下のために『万歳』と言ったのであって、総理大臣万歳といった人はゼロだ。天皇陛下の参拝が一番だ
(『北海道新聞』2006年1月29日 16版 1面より)

 憲法には「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であ」ると定められています。
 日本国民の「統合」がどういう内容のものであるのか、またあるべきなのか、わたしにはよくわかりませんが、それはさておき、「日本国」の「象徴」、つまり存在そのものがクニであるかのように憲法に定められているヒトが(憲法によるこのような規定の是非の問題は今は措きます)、一宗教施設である靖国神社に参拝することを国務大臣が要請(希望?夢想?)するのは、あまり良い現象ではないと思います。いや、かなり悪い現象だし、激烈に悪い傾向だと思います。
 クニは宗教施設に参拝してはいけません。「天皇が靖国神社に参拝すべきだ」と発言する大臣は、自分がそんなこともわかっていないことを表明しているに過ぎない。あの総理にこの大臣。我々はこんな人たちしか選べない、そんな悲しい現象を「総意」しているのです。


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理解する能力のない小泉さん [政教分離]

巻頭言

 徳光さんから巨人と駅伝を取ったら何も残らない。
 小泉さんから理解能力を取ったら、すべてが残る。

 うちの国の首相が年頭記者会見でいろいろなことを語ったそうです。昨日の新聞報道を見て「郵便局はやっぱりわたしの町からばしばし消えていくんだなあ」との思いを新たにしながら年頭記者会見のEditな内容を読み、それでもやっぱりいちばん気になったのは靖国参拝についての首相の思い・思いこみでした。
 まず、その部分を引用してみます。

「一国の総理大臣が一政治家として、一国民として、戦没者に哀悼の念を持って二度と戦争を起こしてはいけないという気持で参拝することに、日本人からおかしいという批判が出ることは理解できない。」
(NHKオンライン http://www3.nhk.or.jp/news/2006/01/04/d20060104000072.html

「一国の首相が一国民として戦没者に哀悼の念をもって靖国参拝する。日本人からの批判は理解できない。精神の自由に、政治が関与することを嫌う知識人や言論人が批判することも理解できない。まして外国政府が心の問題にまで介入して、外交問題にしようとする姿勢も理解できない。心の問題は誰も侵すことのできない憲法に保障されたものだ。/ひとつの問題で、外交交渉はしないとか、首脳会談を開かないとか、理解できない」
(asahi.com http://www.asahi.com/politics/update/0104/006.html

「首相は「(首相の靖国参拝に)日本人から『おかしい』とか『いけない』という批判が(出るのが)、私には理解できない」とも語った。」
(読売新聞サイト http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20060104i104.htm

「首相は靖国神社参拝について「精神の自由、心の問題は誰も侵すことのできない憲法に保障されたものだ」と説明。「一国の首相が一国民として戦没者に哀悼の念を持って参拝することに日本人からおかしいとの批判が出るのはいまだに理解できない」とも述べた。」
(毎日新聞サイト http://www.mainichi-msn.co.jp/seiji/photojournal/news/20060104k0000e010057000c.html

 NHKのを使って考えていきます。

1.総理大臣と一国民
 まず問題だと思うのは、同じことをいろいろな言い方で表現しているつもりで、実は言い換えてしまっているところです。しかもその言い換えで内容が全然変わってしまうのに、話している本人はそれにまったく気付いていない。
 それは「一国の総理大臣が一政治家として、一国民として、」この部分です。

 「小泉さんは一国民である。」「小泉さんは首相である。」これはどちらも正しい。だから「小泉さんは一国民でありつつ首相でもある。」も正しい。しかし「小泉さんという首相は一国民がやれることは何でもやって良い。」というのは正しくありません。
 なぜなら、総理大臣というペルソナは単純な「一国民」とは全然違う役割を担っているからです。ですから、単純な「一国民」であればやって良いことでも、総理大臣であればやってはいけないことがある。
 ですから「一国の総理大臣が一政治家として、一国民として、」と、同じことをいろいろな言い方で表現しているつもりで、実は言い換えてしまって、一国民にできることだから総理大臣というクニの一機関もそれができる、というふうに装ってはいけません。

2.公式参拝
 (たぶん)単純な話です。
 クニの一機関である総理大臣は、一国民にはできる靖国参拝ができません。それは、政教は厳密に分離されるべきだからです。これはとても単純な話だと思います。(憲法で定めるまでもないと思う。)

 「首相の小泉さん」ではなく「単なる一国民である小泉さん」が靖国に参拝するのは、わたしはオッケーだと思います。それは人の嗜好です。わたしにはいかんともしがたい。(他人が煙草を吸うのは副流煙がこちらに来ない限り全然構わない、「きみも吸わなければならない」と言われない限り。同様に、他人が靖国に参拝するのは全然構わない。「きみも参拝しなければならない」と言われない限り、あるいは、「きみやきみの家族・近親者もまつられなければならない」と言われない限り、あるいは、わたし・わたしたちを代表する人が参拝しない限り。)
 実際には首相と一国民との間に物理的な溝はないので、小泉さんを首相と一国民に分けるのはとても難しい。(分けるとしたら署名や宛先の肩書きで分けるしかないんじゃないかと思う。)
 小泉さんが授業参観に行くとする。誰も「首相が学校の視察に来た」とは見ない。「一国民でもある小泉さんがお子さんの参観日にやってきた」と理解する。でも靖国参拝の場合、人は「宗教に関わることのできない首相小泉ではなく、一国民としての小泉が来た」とはなかなか見ない。(もちろんこれは小泉さんにも責任がある。最近はあまり主張しないが、ちょっと前まではずっと「首相小泉が靖国に参拝する」的に主張していた。)
 当然、伊勢神宮への参拝も「首相小泉」としておこなってはいけない。わたしはそう考えています。
 うちのお寺に小泉さんが来てポケットマネーで永代経懇志などをくださるのはオッケーです。領収書も出ます。しかし公費から支出して「首相小泉宛に領収証を切ってくれ」と言われたら、それはできません。
 宗教と「社会的儀礼又は習俗的行為」との境界線が不鮮明であり、かつ「特定の宗教に対する援助、助長若しくは促進又は圧迫若しくは干渉」に関して人それぞれの考え方があまりに多様に存在する現状であることを、もっと真剣に考える必要があると思います。

3.願いと結果
 よかれと思って(願って)したことでも、思いと裏腹な結果しか得られない場合があります。
 「戦没者に哀悼の念を持」つこと、「二度と戦争を起こしてはいけないという気持」を持つことは素晴らしく良いことであるとわたしは思います。
 しかし、首相が自分のペルソナを単純な一国民であると誤解したままで「戦没者に哀悼の念を持って二度と戦争を起こしてはいけないという」思いを新たにする場所が一宗教法人であれば、それは政教分離の問題を含みます。
 同様に、その場所が靖国神社であれば、明治から続く戦没者と仇討ちの「再生産装置」が再び機能することをこそ願っているのではないかとの危惧を呼び起こします。
 こういうのを「思いだけが空回りする」というのだと思う。

4.「理解できない」
 人が何かに接して「理解できない」と表明する場合、そこには二つの意味があります。一つは、本当に理解できなくて困っている場合。いま一つは、今後も絶対に理解したくないから「理解できない」と言って理解する努力を放棄すると宣言する場合です。(わたしは「理解できない」と言わず「わかんねー!」と言います。)
 小泉さんの今回の「理解できない」は「理解したくない」と同義であるんではないかなあと思います。これはつまり「わたしはあなたを理解するための努力をいっさいしません。あなたは持てる努力のすべてを総動員してわたしを理解し、わたしの言っていることをすべて是として受容しなければならない」とも同義であるように思えます。
 わたしは小泉さんの言ってることが十全には理解できません。しかし「理解できない」と言うだけ言って突っ放して、「あなたがわたしを理解すればそれで良い」ということはしません。いじめっこの論理みたいなねじ曲がった勧善懲悪は嫌いです。

0.いじめっこの論理
 いじめっこの論理というのはですね。たぶん本多勝一の『殺す側の論理』みたいなものです。
 学校で誰かがいじめられています。その様子を見ていた担任の先生がいじめられていた子どもを呼び出してこう言います。
 「おまえが悪い。おまえ一人が変われば、他のみんなはおまえをいじめなくなる。おまえが変われ。」
 これがいじめっこの論理です。いじめられっこ一人につき、全体数マイナス1のいじめっこがいます。そのすべてがこの論理で動いています。

 今日はこういう感じです。長いね。考えがあんまりまとまってません。
 ちょっと風邪っぽくて関節があちこち痛いです。
 いま特に痛いのは右臀部、右の腰骨のすぐ下あたりです。
 運動不足の筋肉痛もあるんだろうなあ。

 では、また。

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追記(1月5日 23:15)

 外国の複数の政府が小泉さんの靖国参拝に反対しています。それらの政府が反対している理由は、靖国神社にAクラス戦犯が「合祀」されているからです。
 つまりそれらの政府は靖国神社からAクラス戦犯が「分祀」されれば小泉さんが靖国神社に参拝しても(わたしがそう言うのではなくそれらのクニの政府が言うのですよ)良いと考えているということです。
 つまりそれらの政府とわたしとでは、小泉さんの靖国参拝に反対する理由が全然違ってます。わたしが問題にしているのは憲法云々以前の政教分離の問題なので、たとえ靖国神社からAクラス戦犯が「分祀」されても、小泉さんが首相として靖国神社に参拝するのには反対すると思います。
 その一方で、わたしは、靖国神社とは異なったスタイルの、特定の宗教から脱した、どんな特定宗教の色もない、今までの戦争の全犠牲者を悼むために彼らの名前を刻むなどした「平和の礎」みたいな施設がもしできるとしたら、そこにはAクラス戦犯の名前も当然ニホンの「負」の部分を代表する現象の一部として刻まれるべきなんであろうなあと考えています。
 また、靖国神社の場合、政教分離の問題がもちろんありつつ、他にも「クニのために頑張った人を顕彰してわたしたちも彼らの後に続いていこう!」的な雰囲気が漂っている気がします。それも首相の靖国参拝がいけないと思う理由です。
 クニのために頑張った人を顕彰する施設は、よくよく注意してやらないとアメリカのアーリントンのように戦死者の単なる万倍増装置にしかならないと思うからです。怨みと怨みが絡み合っていつまでも続く戦争がそこかしこにある。そういうところから脱却するための努力はしてもし過ぎることがないと思うのです。うっかり過ごしているとまったくしないで済ませてしまうと思うのです。


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自民党新憲法草案を断固拒否します。 [政教分離]

■ 自民党新憲法草案を断固拒否します。
(2005年11月1日の日記から転載)

 先日、自民党新憲法草案が発表されました。いろいろ問題点はあるんでしょうが、9条は今は放っておいて、政教分離のところを考えてみます。9条は、その昔、原発を推進する側の人たちが事故の際の周辺住民避難などのマニュアルをまったく作っていなかったことを指さして「緊急時の対応が決まっていないのはおかしい」と言っていたのとほぼ同じ立場の(どっちかと言うとわたしのような)左の立場の人間が今度は逆に「緊急時のことなんて考えなくて良い」と言い張っているように思えて、面白いなあと思っています。たしか、原発推進派が同じ事を言っていなかったか。「原発は絶対に安全だから災害時の緊急マニュアルなんて必要ない」って。今回は平和主義に徹すべきだと主張する人たちが「平和主義に徹すれば軍隊なんて要らない。だから9条は変えてはいけない」的に言っている。いやこれは言い過ぎか。これは数年前の有事法制のときの違和感か。

 ‥‥とにかく今は9条の話は保留します。今の問題は20条と89条です。まず、現行憲法の条文と自民党案とを比較してみます。【 】で囲っているところが相違点です。

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◇第二〇条
■現行憲法
(1)信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
(2)何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
(3)国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。
■自民党案 (1)信教の自由は、何人に対しても保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
(2)何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
(3)国及び【公共団体】は、【社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超える】宗教教育その他【の宗教的活動であって、宗教的意義を有し、特定の宗教に対する援助、助長若しくは促進又は圧迫若しくは干渉となるようなものを行っては】ならない。
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◇第八九条
■現行憲法
公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない。
■自民党案
【(1)】 公金その他の公の財産は、【第二十条第三項の規定による制限を超えて、】宗教【的活動を行う】組織【又は】団体の使用、便益若しくは維持のため、【支出し、又はその利用に供してはならない。】又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない。
【(2) 公金その他の公の財産は、国若しくは公共団体の監督が及ばない慈善、教育若しくは博愛の事業に対して支出し、又はその利用に供してはならない。 】
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 このような案は、「社会的儀礼又は習俗的行為の範囲」が確定されない限り問題外だと思います。そしてその確定は不可能です。よっていきなり問題外です。

 政教分離をめぐる違憲訴訟では「社会的儀礼又は習俗的行為」とそうでないものとの線引きがまったく確定されていません。ころころころころ、まるで人の数ほどの判例が出現している現状下では、声や権限、またはネット上での字なんかの大きな誰かが「ココが確定的な線です」と主張すればそれで確定するような生易しいものではないのです。

 靖国神社への参拝は「社会的儀礼」でも「習俗的行為」でもない。靖国神社への参拝は歴とした宗教的活動です。「靖国神社への参拝は社会的儀礼であり習俗的行為の範囲を超える宗教的活動ではない!」とする主張は、かえって靖国神社への信仰に対する冒涜なのです。

 もちろんわたしは阿弥陀さま以外にわたしの救いはないことを偶然ながら知り得ているので靖国神社を信仰することはしません。しかし何が信仰や信心への冒涜なのかくらいはわかります。これは地方の神社にしても同様です。すべての神社への信仰は、すべてのお寺や教会で行われている信仰と同様、歴とした宗教的活動です。

 また、「無意識のうちにおこなっているからこれは宗教的信仰に基づいた行為でない」と主張するのはその人の勝手ですが、しかしその主張は「無意識の信仰も実は歴とした信仰である」という事実を無視した、事実と異なる主張に過ぎません。

 ちょっと考えればわかることを考えずにおいて無知の上に無知の屋上屋を重ね、あまつさえその無知に他者を従わせようとするのは暴力以外の何ものでもないと思います。

 つまり、宗教的信仰から(あるいは真宗では「信心」から)靖国神社に参拝しない・参拝したくない人がいる以上、靖国神社への参拝を単純に「社会的儀礼」または「習俗的行為」と規定することはできないんです。

 もちろん「亡くなった方を追悼するのは社会的儀礼です」あるいは「亡くなった方を追悼するのは習俗的行為です」と規定することはできると思います。しかし。

 追悼の場を靖国神社に限定し、それが全コクミンの一致した望みであると主張するのだとすれば、その主張は事実から大いに逸脱していると言わざるを得ない。

 これは、クニやその機関が追悼の場をどこどこの何々寺に規定することが不可能であるのと似てるんじゃないかと思います。クニやその機関の勝手で宗教をコロしてはならんのです。

 「事実がこうだったら良いな」と「事実がこうである」との間にはものすごい開きがあります。唯願無行ではダメなのです。

 こんな案を出す人を見るとき、わたしはまるで「青信号は進行可能、黄信号は停まれ、赤信号は進行不能」という現行法が自分の信条に合致しないからと言って「青信号は進行可能、黄信号は注意して進行せよ、赤信号はよくよく注意して進行せよ、たまに停止すべし」に変えよと主張する、そういう人を見る目で見てしまいます。まあ、わたしにどういうふうに見られようと関係ないです。変えようと主張する人が多くなればそのまま法律は変わってしまいます。それは情けない。

 だからわたしは、わたしにどういうふうに見られているのかを気にする人が増えるようにせいぜいはからうのみです。これから死ぬまでくたびれ続けてやる。

 ということで、以上、わかっていただけたと思いますがもう一度言いますと、わたしは自民党新憲法草案を断固拒否します。

(2005年11月1日の日記から転載)


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『靖国論』を立ち読む。 [政教分離]

 右系の本が左系の本よりかなり充実している感のある本屋さんに行きました。そこではこないだ『嫌韓流』を買ったりしてます。そういうことをしてるからそういう本が充実していってしまうんだろうか。『嫌韓流』は実は韓国への遠回りなラブコールではあるような気がしてきてます。bk1で買った宝島『嫌韓流の真実』は期待してた冒頭エッセイが東浩紀のことを誤解・曲解しつつ「(笑)」と書いてある悪趣味な駄文に過ぎずげんなりしてしまい、そこから一歩も先に進めなくなってます。
 小林よしのりが8月に『靖国論』というのを出していたんですね。ちょこっと立ち読みました。田舎の方の本屋さんとしては画期的なことに、そのすぐそばに高橋哲哉の『靖国問題』が置いてありました。でも他のちくま新書もその隣に2冊あったし、かつ西尾氏の本や件の『嫌韓流』がそばにあったりしたので、わたしにはやっぱり「右系の本が多い」印象です。

 読みたかったのは靖国神社への首相「公式」参拝をめぐる「政教分離」のところです。小林氏の論はネット上で右系論者の自論・持論として展開されることが多い印象があります。かつ、先日、友だちのサイトから「やれやれ」的にリンクしてあったブログの右右した記事と、それに対する少なくない方の同様に右右したコメントがまるではんこで押したような画一的な論として一致している印象がありました。なので、小林氏がどこかでそのようなことを言っていて、彼らはその影響を受けているのだろうか? と思ったのです。

 ‥‥立ち読みして「やっぱり」と思ったり、その分かえって驚いたことには、小林氏が『靖国論』の中で「政教分離」に関連して展開する論の内容・文脈・方向性・引用物と、件のブログで展開されていた論の内容・文脈・方向性・引用物とは完全に一致していたのでした。ひねりも何もなく大模倣大会。すごいなあ小林氏。でも彼本人がかつて言っていたように(『脱正義論』だったと思う)、彼の作品の熱烈なファンはまず彼とその作品の内容を疑うべきだろうに、と思いました。好きであるゆえに何も批判せずついていくなんて、そんなのはファンと言えないと思います。


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第一稿。 [政教分離]

 靖国関連で資料整理のようなものを頼まれていた、その第一稿を提出できました。とは言え図書館で借りてきた『ジュリスト』をちょっとだけ Edit したり、11月1日のココの日記をコピペして加筆訂正しまくったり、頼んでくれた方の整理案内に従って現状や展望を箇条書きっぽく考えてみたり、という感じです。ぜーんっぜんまとまっておりません。頑張って、もう少し整理します。

 それにつけても『別冊ジュリスト No.154 No.155』さまさまです。無茶苦茶スッキリしてる。無茶苦茶わかりやすい。専門家ははその専門性の故に尖端に突っ走っていってしまうことが多い気がするけれど、専門知識がありつつそこで振り返ってシロウトにもわかりやすく説明してくれる「知識人・学者・説明者・評論家」ってのは絶対に必要なんだなあ! と、あらためて思いました。判決文だけ読んでたら一カ月くらいかかる論点整理が1時間で終わり得る、これはすごい。靖国関連で、使えてしかもわかりやすい資料を何か紹介して欲しい、と無理をお願いしたら快く『ジュリスト』を勧めてくれた【まるさん】に感謝です。

 ‥‥感謝するだけじゃなく精一杯にこれを生かします。どうやら新規購入して貸してくれたらしい町の図書館にももちろん大感謝です。


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