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森達也『神さまってなに?』河出書房新社 [本の感想系]

世界宗教から始める宗教入門。

神さまってなに? (14歳の世渡り術)

神さまってなに? (14歳の世渡り術)

  • 作者: 森 達也
  • 出版社/メーカー: 河出書房新社
  • 発売日: 2009/06/11
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

【bk1】http://www.bk1.jp/product/03125356

 「14歳の世渡りシリーズ」なので14歳むけに書かれた本であるらしい。でも14歳以上であれば誰が読んでも良いと思う、宗教について考える本。民族宗教のユダヤ教・日本神道、世界宗教のキリスト教・イスラム・仏教などについて調べ、考える。たいていの場合、こういうふうに宗教を扱う本は序章や第一章で宗教を概観したあと、「歴史の古い順」または「信者の多い順」に宗教を並べて解説するのだが、この本は違う。
 
 はじめに
 第1章 宗教ってなに?
 第2章 仏教 悩み多き王子・ブッダを開祖とする最も古い世界宗教 
 第3章 キリスト教 神の子・イエスを開祖とする世界最多の信者数を誇る宗教
 第4章 イスラム教 預言者ムハンマドを開祖とする最も新しい世界宗教
 第5章 危険と隣り合わせの宗教
 終章 神さまは存在するの?
 
 「はじめに」で民族宗教と世界宗教の違いについてがっちり学んだ後、三つしかない世界宗教を古い順番に学んでいく。なるほど、慥かに仏教は世界で最も古い世界宗教である。しかしこの本を読むまでわたしにそのような視点が皆無であったことに気付かされた。(恥ずかしい。)世界宗教はなぜ世界宗教たり得ているのか。開祖その人はどのような人だったのか。わかったふりをしないで、わかることとわからないことを分けて学んでいく。
 
「……わからないよね。実は僕も書きながらよくわからない。まあそれも当たり前。これは仏教の奥義なのだから、簡単にわかるはずがない。」(78頁)
 
 そして、超歴史的な真実を明らかにする性質を持つ宗教が、それ自体は実は歴史的な存在であることをふまえ、歴史に思いをいたす。
 
「十字軍の遠征だけじゃない。歴史はずっとその繰り返しだ。昔のことだけではない。今もある。だから知ってほしい。歴史は確かにくり返すけれど、くり返しているのは歴史ではない。//くり返すのは人だ。//人が同じ歴史をくり返す。だからそろそろ知らなくちゃいけない。学ばなくちゃならない。考えなくちゃならない。」(141頁)
 
 このへんはいつもの森氏のスタンスである。「ああ来た来た!」とさえ思える。でも森氏が宗教について、照れたり敬遠したりせずにここまできちんと語っているのは、なかなかすごいことだと思う。
 
 ただ、最後の最後でパスカルと同じ轍を踏み、宗教を「賭け」と思いこむところに堕してしまうのはどうなのかと思う。ちょっぴり残念。
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コメント 7

plant

こんにちは。
興味のあるところなので教えてください。
宗教は賭けじゃない、という方の考え方を。
私は賭けだと思っているのですが、そもそも“信じる”という行為に関わることなので、人それぞれだとも思っています。
つまり、賭けじゃないという考え方があっても良いのであり、論争するつもりはありません。
ご参考までに、私が賭けだと考える道筋は、次の通りです。
・宗教とは、知ることのできないことを信じることである。
(知ることができることは知れば良いだけであり、宗教ではない。)
・一方、知ることができないことについて、色々な仮説=宗派が存在する。
・どの宗派を信じるかについては、疑いようのない論理は存在しない。
(もしも疑いようのない論理が存在するとすれば、その論理が示す部分は宗教ではない。)
・ならば、どの宗派を信じるのかは、各人の選択に任されている。
・故に、宗教は賭けである。(終わり)
by plant (2009-09-02 02:48) 

plant

ちなみに、仏教は世界で最も古い世界宗教である、というのはどうなんでしょうね。
他の2つに比べればずっと拡がりが小さいとか、儒教や道教(仏教よりもちょっと古い・実は多民族多地域に拡がる)は世界宗教じゃないのかとか、キリスト教やイスラム教が中東一神教の宗派の一つだと考えればその源流は遙かに古い(イエスやムハンマド以前にアブラハムやモーセなども創唱者としての特徴を持っている)だとか、色々な反論が可能だと思います。
「世界宗教」のイメージは明らかに西欧キリスト教に基づくものであり、それに近いかどうかを競って三大世界宗教などと言っても、あまり意味がありません。“二大世界宗教”が、教えの立派さよりも征服戦争や植民地化と共に強制的に拡がったに過ぎないことを思えば、なおさらです。
by plant (2009-09-02 03:30) 

chishu

宗教は、たくさんある中からこっちで選択して「信じる」モノではないんです。その宗教の提示する事実(仮説ではありません、事実です)を事実として知る(知ってしまう)、それが「信じる」ということです。仏教には「信知する」という言葉もある。

たくさんある「仮説」ならば選んで信じることができますが、わたしにはコレしかないんだなあということがわかる、それが「信」の状態なので、もはや選べなくなってます。

パスカルは「一生懸命考えたけど神が実在するかどうか、とうとうわからなかった。わからなかったけど、もしいるなら救ってくれるっていうんだから、そりゃ信じてた方がトクだ。だからわたしは神がいる方に賭けて、信じることにした」って言ってます。

そんな、あるかどうかわらん神なら信じてもダメでしょう。パスカルはキリスト教の神ではない何か別のカミサマを信じていることになると思います。

知り合いのキリスト教徒は、パスカルとは違い、「神をわたしが積極的に信じるからわたしは救われるんです」という言い方をする。彼にとって神の実在は信じる信じないではなく、自分の存在する前提になっている。
実在を知っているから信じることができる。信じるから実在である。
そのへんがどういう関係になってるのか、聞いてもよくわからなかった。真宗だと「信じさせるのも阿弥陀さまのはたらき」なので、キリスト教でもそうなの?って聞いたら、それは違う、信じるのはわたしです、わたしが積極的に信じるから救われるんです、的に言う。しかしとにかく、神が実在するかどうか不明だから「賭ける」などとは言わない。

宗教は、こっちから論理を積み上げて近づくべき「対象」ではなく、向こうからこっちに向かって立ち現れてくる「世界観」みたいなモノの総称なんだと思います。
by chishu (2009-09-02 22:18) 

chishu

そうですねえ、微妙ですよね。なんせ仏教徒の数は同性愛者の数よりも少ないのです。自分の中の偏見を自覚せざるを得ませんでしたが、とにかくそれを知ったときは本気でがっかりしました。

たぶん、時間が経ってもへこたれずに残っている新宗教のことを世界宗教って言うんだと思います。広がりや影響、歴史が小さいうちは「新宗教」と呼ぶ。少なくとも1000年以上経ったら「世界宗教」と呼ばれるようになるのかな、と思います。

儒教や道教は宗教じゃないと思います。たしなみとか生活規範とか、その域から出ない気がします。あと創唱者がいてもユダヤ教はユダヤ教で、民族宗教です。

仏教が世界最古の世界宗教である、といっておののいたのは、じゃあなんでこんなにこじんまりとしか広まってないのか、それはわたし(たち)が堰き止めてしまってるからなんじゃないのか、ちょっと考え方あらためるべきなんじゃないか、などなど考えたからです。でもわたしの書き方は「誇って良いんだ!」的なニオイがしてアレですね。
by chishu (2009-09-02 22:38) 

plant

他の記事によれば非常にお忙しいようですのに、ご丁寧に有り難うございました。
う~ん。しかし、ほぼ同じものを見ているのに、最後の所でそれを何と呼ぶかが、言葉遣いとして正反対になっている、という印象です。
私に立ち現れてくる「世界観」は、全てを疑ってみる“哲学教”なのです。
後半については、色々反論的なことも思いつくのですが、長くなるのでまた改めまして・・・。色々考えていて、最終的には「じゃあ、世界宗教としての仏教の中心にはどんな考えがあるんだろう?」と思いました。
by plant (2009-09-03 02:11) 

chishu

常例線は、始まってしまえば普段よりものんびりした感じです。「気ぜわしさ」というか、焦燥感みたいなのはずっとあるけど、それはそれ。今回のテーマは「ご信心」で、信仰と信仰じゃないものとの境界線のところを話している(つもりな)ので、plantさんに説明しようとして足掻くのも勉強になってます。

「説明しなければわからないということは、説明してもわからないということだ」的な言葉が、最近読んだある小説に出てきました。これは宗教のことを言ってるのかなあと思いました。

見てるのは「ほぼ」ではなく完全に同じものなんだと思います。で、見え方や見る角度が違うだけ、かつ、その見え方や角度の違いが決定的なんだと思います。だから

> 言葉遣いとして正反対になっている

のですよ。うん。(弱ったな。)

とりあえず。仏教の中心には「仏が説いた教えにしたがってわたしが仏に成る」があります。四諦八聖道や三法印(四法印)も中心部にありますが、そのまわりのものです。

ええと。

いろんな種類のりんごがあって、いろんな人たちがそれをうまいうまいと言って食べている。他の人にも勧めている。わたしも「はいっ」って言って手渡されたんだけど、その人たちが食べているのを見ても、自分の食べ方がどうしてもわからない。で、「ぼくはこれをどうやって食べるの?」といろんな人に聞いて回る。でも聞く人聞く人みんな「何言ってるの?食べれば良いだけだよ?食べ方がわからない?は?なんで?」と言ってかえって困られる。食べ方がわからなくて困ってる人はわたしの他にもたくさんいる。みんなで集まって「わからんよね」って言い合う。「うん、わからんのです」「困ったね、おいしそうなのに」。それを見て、もう食べてる人たちは「そんな、わからん人が集まって話しててもわからんよ。食べれば良いだけなのに」と言って寂しそうにする。そのうちわたしは、もう食べてる人たちばっかり集まってむしゃむしゃ食べてるところに入っていって、「おいしそうに食べてるなあ。でも食べ方が、誰も教えてくれないしぼくにももわからない。一体どうやって食べるんだろう?」と思いながら、食べ方を一生懸命考えるのをやめて、あきらめて一口食べる。「あれっ?」

はいっ。
by chishu (2009-09-03 09:40) 

chishu

その後、足掻きすぎて、ちょっと変な方向に走ってしまい、困っているところです。壁?うみのくるしみ?行き止まり?断崖?
by chishu (2009-09-07 09:27) 

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