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「信心を得た人に導かれないと、信心は頂けないのか」 [法話]

瓜生崇さんは、定期的にいろんな講義をなさっています。
そのときにいろんな質問を受けて、答えてくださってます。
この質問と回答も、なんかとても良いです。

なんまんだぶ、なんまんだぶ。
(2021年8月20日までの限定公開だそうです)



「信心」というのは、浄土真宗と他の宗教とで意味合いがちょっと違います。一般的な宗教でいう「信心」は「わたしが信じる心」で、どれだけ強く信じ込むか?という感じですが、浄土真宗ではそうではなく、「阿弥陀さまからいただく」という感じで、「ご信心」といったりします。このことからもフツーの心でないことが覗えると思います。そういうこともあって浄土真宗の中では「信心を〈いただく〉のはとてもむずかしい」というイメージが一般的です。「信心を得る」「信心を獲得(ぎゃくとく)する」といったりもします。

信心が浄土真宗の「信」の基本であると思われている、と同時に「いちばん難しい」とも思われています。

そういうもんであるなら、信心を「得ている」人に指導されないといけないよね? という感じの質問が来て、瓜生さんはその質問が知らず知らずに根拠にしている「そういうもんである」というところをこそ「ホントにそうなの?」とえぐっていきます。

誰にも聞かれてませんが信心について自分がどう思っているかを言うと、瓜生さんとたぶんちょっと違った表現になるんだと思いますが、「信心というのは、得るとか獲得するとか、そういうふうに言うべきでないということがわかるのが、信心を得た状態なんだ」、みたいなことがひょっとすると言えるのかな?と思っています。でも「これだ、これだぜ! これだったんだ! やったぜつかんだぜ信心!」みたいな感じならそれは違うとも言える。

そしてまた、これは瓜生さんの表現をたしかそのままいただいてよく言っていますが、「南無阿弥陀仏そのものがご信心」です。
 
稲城和上の「与えて持たさぬがお慈悲じゃぞ!」という表現も大好きです。
 
なんまんだぶ、なんまんだぶ。

……知らんけど。
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