テレホン法話。 [法話]
浄土真宗本願寺派・北海道教区十勝組、ならびに、浄土真宗本願寺派本願寺・帯広別院で、共同でずうーっとやっているテレホン法話があります。その 2020年7月16日~31日 を担当しました。
電話 0155-42-4446
よろしければお聞きください。
以下、その原稿です。
浄土真宗本願寺派、北海道教区十勝組・本願寺帯広別院、テレホン法話に、ようこそ。
さて。親鸞さまの言葉を紹介してくださっている『歎異抄』という書物の、第八条には、親鸞さまが、「念仏は、称える人にとっては、行でも善でもない」と仰った、とあります。
行ではないというのは、行は「おこない」という字を書きますが、「おこないではない」ということではなく、もちろん「おこない」ではあるけれど、それによって何か結果が生み出されるタイプの、仏道修「行」のようなものでは、ない、ということです。
そして、「行でも善でもない」というときの「善」というのは、善し悪しの「よし、」善を積む、善行を積んでいくという意味合いで語られる、そういうものでは、ないということです。
ですから、お念仏を、わたしが称える場合は、わたしにとって、念仏は行でも善でもない、つまり「なんまんだぶ、なんまんだぶ」と称えるのは、何か結果が生み出されるタイプの、仏道修行、「行」ではないし、積み上げられていくタイプの善、でもない、ということです。
聞くだけだと伝わりにくいでしょうか。
つまり、親鸞さまが仰りたいのは、わたしが「なんまんだぶ、なんまんだぶ」ってとなえるのは、わたしが称えている、そのまんまが、まさに、阿弥陀さまのはたらきの中にある出来事であって、わたしの行いや、善をめざすような思いを、完全に超越しているということなんです。
つまり、わたしがなんまんだぶをとなえているということは、わたしは阿弥陀さまに救われるということです。
大事なことなので二度言います。つまり、わたしがなんまんだぶをとなえているということは、わたしは阿弥陀さまに救われるということです。
あなたもわたしも、わたしやあなたが頑張るから阿弥陀さまに救われるのではなく、わたしの行いや、わたしが善だと考える物事に一切、何にも関係なく、「あなたのことは、南無阿弥陀仏を届けて、阿弥陀仏が救います。」ということなんです。
阿弥陀さまが整えて、わたしのところに今こうやって届いている「なんまんだぶ!」、南無阿弥陀仏が、救いそのものです。それを、仏道修行のように「行」じたり、「善」として積み上げたりする必要はありません。ただ、阿弥陀さまの仰せにしたがって南無阿弥陀仏と言わせてもらうだけです。
疑っても良いんです。ただ、その疑いには何の意味も効果もありません。南無阿弥陀仏が届いているという事実の前には何事もかすんでしまいます。
わたしがなんまんだぶをとなえているということは、わたしは阿弥陀さまに救われるということです。
なんまんだぶ、なんまんだぶ。
担当は、十勝組、音更の妙法寺、石田智秀でした。
電話 0155-42-4446
よろしければお聞きください。
以下、その原稿です。
浄土真宗本願寺派、北海道教区十勝組・本願寺帯広別院、テレホン法話に、ようこそ。
さて。親鸞さまの言葉を紹介してくださっている『歎異抄』という書物の、第八条には、親鸞さまが、「念仏は、称える人にとっては、行でも善でもない」と仰った、とあります。
行ではないというのは、行は「おこない」という字を書きますが、「おこないではない」ということではなく、もちろん「おこない」ではあるけれど、それによって何か結果が生み出されるタイプの、仏道修「行」のようなものでは、ない、ということです。
そして、「行でも善でもない」というときの「善」というのは、善し悪しの「よし、」善を積む、善行を積んでいくという意味合いで語られる、そういうものでは、ないということです。
ですから、お念仏を、わたしが称える場合は、わたしにとって、念仏は行でも善でもない、つまり「なんまんだぶ、なんまんだぶ」と称えるのは、何か結果が生み出されるタイプの、仏道修行、「行」ではないし、積み上げられていくタイプの善、でもない、ということです。
聞くだけだと伝わりにくいでしょうか。
つまり、親鸞さまが仰りたいのは、わたしが「なんまんだぶ、なんまんだぶ」ってとなえるのは、わたしが称えている、そのまんまが、まさに、阿弥陀さまのはたらきの中にある出来事であって、わたしの行いや、善をめざすような思いを、完全に超越しているということなんです。
つまり、わたしがなんまんだぶをとなえているということは、わたしは阿弥陀さまに救われるということです。
大事なことなので二度言います。つまり、わたしがなんまんだぶをとなえているということは、わたしは阿弥陀さまに救われるということです。
あなたもわたしも、わたしやあなたが頑張るから阿弥陀さまに救われるのではなく、わたしの行いや、わたしが善だと考える物事に一切、何にも関係なく、「あなたのことは、南無阿弥陀仏を届けて、阿弥陀仏が救います。」ということなんです。
阿弥陀さまが整えて、わたしのところに今こうやって届いている「なんまんだぶ!」、南無阿弥陀仏が、救いそのものです。それを、仏道修行のように「行」じたり、「善」として積み上げたりする必要はありません。ただ、阿弥陀さまの仰せにしたがって南無阿弥陀仏と言わせてもらうだけです。
疑っても良いんです。ただ、その疑いには何の意味も効果もありません。南無阿弥陀仏が届いているという事実の前には何事もかすんでしまいます。
わたしがなんまんだぶをとなえているということは、わたしは阿弥陀さまに救われるということです。
なんまんだぶ、なんまんだぶ。
担当は、十勝組、音更の妙法寺、石田智秀でした。