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送り火・迎え火を、浄土真宗ではしません。 [法話]

浄土真宗ではいわゆる「迎え火」や「送り火」をしません。のみならずお盆に「死者が帰って来る」と強調することもしません。なぜなのか。



それは、阿弥陀仏の救済に出遇った人は、この世でのいのちを終えると阿弥陀仏のお浄土に往き、そのままさとりを開いて仏になり、南無阿弥陀仏のはたらきになってこの世に、普段からずーっとかえって来るからです。お盆だけかえって来るわけじゃない。というか、お盆にだけかえってくる人たちは普段どこで何をしているのでしょう……?

上記↑のようなことについて、真宗以外の常識を持つ人にも、なるべくわかりやすいように説明してみました。しかし、価値観がかなり違うと思うので、ぜんぜんうまくいってないかもしれません。そのへんについては、可能であれば「コメント」してくだされば嬉しいです。

この日もご和讃は「くりよみ」いたしました。クリオネではなくくりよみ。
読ませていただいたのは

 往相・還相の廻向に
  まうあはぬ身となりにせば
  流転輪廻もきはもなし
  苦海の沈淪いかゞせん(親鸞作 正像末和讃より)

(現代語訳
阿弥陀仏の往相・還相の回向に出会わない身であったなら、迷いの世界を生れ変わり死に変わりし続ける。苦しみに満ちた海に沈んだままで、どうすることもできないであろう。)

です。


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ものともしない [法話]

2022年8月1日の妙法寺(音更)の「あさまいり」のご法話です。

いきなり「ご讃題」(最初にいただく法語)の解説から入らず「そういえばこないだこんなことがあって…」的になるべくわかりやすく話したつもりでしたが、話の内容が「高尚すぎ」たためにメインテーマの「悪人」の内容がまったくわからなかった、と、聞いてくれてた母がアドバイスをくださいました。うーん、精進いたします、みたいに返しましたが、正直「弩な伊勢っ中年」と思いましたがこの思いをも超越して、凌駕してとどく、救いの確かさをどのように表現したら受容してもらえるのかを考えるのがわたしの役目なのだなあと少し思ったので、眠りマス。

あ、スミマセン。ご法話は「悪人正機」と「あいつはどうなるんだ?」のテーマの融合を目指しました。しかしながら、「必ず救う」が「だからわたしは救われる」に直結し、その結果として「あいつはどうなるんだ?」という問いが雲散霧消していく! ……ということを全然うまく説明できていないので、申し訳なかったと思っています。

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