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本願力にあいぬれば… 小西善憲師のご法話です [法話]

2023年7月9日の、妙法寺(音更)の常例法座です。

大阪市の小西善憲師です。信徳寺さま。



本願力にあひぬれば
 むなしくすぐるひとぞなき
 功徳の宝海みちみちて
 煩悩の濁水へだてなし
(親鸞作『高僧和讃』善導讃より)

ていねいで実直なおとりつぎでした。

三毒の煩悩(貪欲・瞋恚・愚痴)や、疑心と自力心、「聞く」こと、生死は まよい であること、往生と成仏など、わかりやすくお話ししてくださいました。ありがとうございました。

大きな板書もしてくださいました。
(動画ではちょっと不鮮明ですがわかると思われます)

※掲載をご快諾くださりありがとうございます。

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ご法話を更新しました。 [法話]

研修を受けています。
カタくて融通のきかないわたしが、少しでも柔らかく融通がきく人になっていく、そういう研修であるよりは、カタくて融通のきかないわたしが、それでもいろんな「生きづらさ」を抱えている人を、支援するというか、邪魔にならないように何かにつなぐことができるとか、そういうふうにやっていけるようになる研修だと思います。
苦悩や生きづらさを誰かしら何かしら抱えている。若者は特に抱えている。少しでもその生きづらさが緩和されればいい。
この研修は、簡潔に表現するなら、非常に浄土真宗っぽい研修です。
……という内容のご法話です。そうかな。


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運動会になぞらえて [法話]

2023年6月1日の妙法寺のあさまいりのご法話です。
運動会になぞらえて語っています。
うまくいったのかどうかは不明です。おたしかめください。


ご讃題は

諸仏の護念証誠は
 悲願成就のゆゑなれば
 金剛心をえんひとは
 弥陀の大恩報ずべし

 親鸞作『浄土和讃』「弥陀経讃」からいただきました。
なんまんだぶ。
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華麗にスルー [法話]

カレーの調理法などに言及しつつのご法話でした。
2023年5月16日 妙法寺 あさまいり



カレーを調理するとき、ルウは細かくしないで入れても溶け方にそんなに変化がないそうです。「まさかそんなことが」と思ってやってみたら本当にそんなに違いはありませんでした。

……というところからのご法話でしたが、ちょっと言い過ぎているかもしれません。
ルウが溶けやすいのは「グツグツ煮えたぎっている状態」ではなく「少し冷めた状態」だそうです。だからカレーの箱の説明に「火を止めて入れる」と書いてあるんですね。
なので、煮えたぎっているところに細かくしたものを入れて溶かそうとするより、少し冷めたところに大きなままドボンと入れて説かすほうがよく溶けるとは言えますが、少し冷めたところに大きいのを入れた場合と細かくして入れた場合とをわたしは比較してませんので、それがどうなるかはちょっとわかりません。
今度やってみようと思います。

また、「火を止めてからルウを入れる」という説明の通りに調理していたのは「ルウには小麦粉が入っているので焦げる恐れがあるから、せめてぜんぶ溶けきってから火を入れた方が焦げる心配が少し減る」程度のことだと思ってのことで、温度が低い方がルウが溶けやすいと知ってのことではありませんでした。

しかしながら、火を止めてからルウを入れた方がカレーが美味しく早く出来るのは体感できています。

ご讃題は

仏智不思議をうたがひて
 罪福信ずる有情は
 宮殿にかならずうまるれば
 胎生のものとときたまふ
 (「正像末和讃」(79))

でした。

以上、疑うことと信じることについて、親鸞さまのご和讃を味わいつつ、カレーの調理法など、いろいろ考えながらのなご法話でした。

サムネイルは何となく「華麗にスルー」としてしまいましたが、内容とあんまり関係なくてすみません。(いちおう「わたしたちの努力をすべて華麗にスルーしてしまう阿弥陀さま」みたいな感じではあると思います。)
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打本厚史師 ご法話 「白骨章」を中心に [法話]

2023年5月9日 妙法寺(音更)常例法座です。
打本厚史師:専証寺(鷹栖町)がご講師です。



ご讃題
「されば人間のはかなきことは老少不定のさかひなれば、たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、念仏申すべきものなり。」
蓮如作『御文章』(『おふみ』)5帖16通「白骨章」より

以前から、報恩講・永代経・常例、何度も来られている布教使さんです。

蓮如さまの『白骨の御文章』をご讃題になさって、わたしたちは、わかってるようでわかっていない、わかっているけれどわかっていない、ということを丁寧に味わわせてくださいました。『白骨の御文章』の冒頭には「それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、おほよそはかなきものはこの世の始中終、まぼろしのごとくなる一期なり。」と、いたってフツーのことが書かれているけれど、わたしたちはフツーのことが実はわかっていない、だから……! という。

ご門徒さまとのふれあいの中での気づき、書籍を通しての気づきなどなど、多岐にわたる話題から、『白骨の御文章』の中心課題をみっちり味わわせてくださいました。

杉紫朗『御文章講話』
鎌田實
杉本健郎『着たかもしれない制服』
そして
高史明

世の中のすべてが、すべての感動や気づきが、阿弥陀如来の救いの確かさに確実につながっている、ということが半ば体感できるご法話でした。

ありがとうございました。
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開いて示す [法話]

2023年5月1日の妙法寺(音更)のあさまいりのご法話です。
 

 
「智慧光のちからより
 本師源空あらはれて
 浄土真宗をひらきつつ
 選択本願のべたまふ」
(親鸞作『高僧和讃』「源空讃」より)

を引いて、「親鸞さまには立教開宗の意図はなかった」ということを述べています。
また、法然さまにもやっぱり「あたらしい一宗派を立てよう!」という意図はなかったとも述べています。
 
真宗的には、法然聖人も「浄土宗」という「一宗派を開く」とか「一宗派を立てる」意図はなかった、ただ名前を立てて考え方として独立させた、新しい教えに見えるけれど新しくはない、古くからある経典の中に連綿と受け継がれて来ていた教えを「開いて示した」という捉えです。結果的に立教開宗したけれど、立教開宗の宣言ではなかった、一宗独立の意図はなかった。

しかしながら端から見れば一宗派が立ったようにしか見えなかっただろうし、結果的にまったく新しい宗派が立ったわけだから、何というか。

それまでの仏教の集団と自分の所の集団とを対立させていこうという意図も、もちろんなかったんだろうけど、というか自分の所の集団がそれまでの仏教の人たちから「別の集団」として認識されているという捉え方もなかったんじゃないかと思う。

「そんな意図はありません」という立場。

「そんだけ人を集めておいて何を言ってるんだ」
「いや集まっちゃっただけで集めたつもりはないです」
「一宗派を新しく立てるなんて何てことするんだ」
「いやそんな意図ありません、ただ名前は昔からあったと考えることが出来て…」
「昔からある言葉だったとしても結果的に一宗派を立てて集団化してるんだよ」
「そんなこと言われても困るんです」
「とにかく人が集まらないようにしろ」
「集まっちゃうんです。集まらないようにする方法がわかりません」
「とにかく解散しろ」
的な。

※ 以上、個人の見解です

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浄土宗を立名する

 各宗の教判を広い視野から順次述べて、その後「いまこの浄土宗は」と、宗名をあげて、道緯禅師の聖道門、浄土門の二門判に依ることを明らかにします。法然聖人は、釈尊一代の説教は、浄土門において帰結すると見、これを浄土宗と名づけます。従来の日本仏教に無かった浄土宗の独立を[P.31]
宣言します。この点については、さらに引きつづいて述べる文で、「華厳・天台等の八宗・九宗」(『註釈版聖典(七福篇)』一一八五頁)の宗名があるけれど、新しく「浄土宗」という名を立てるのではなく、すでに元暁の『遊心安楽道』や慈恩(基)や迦才の『浄土論』に「浄土宗」と立名されることを引証します。これは浄土宗という宗名に伝承あることを説き、さらに寓宗的浄土教(他の宗の枠内にあった浄土教)より、浄土宗のみによる救いが示されるのです。
 なおここで言及しておかねぱならぬ問題があります。『選択集』は法然聖人六十六歳の時に完成して一部の弟子に書写されていますが、一般に出版されてはいませんでした。しかし、法然聖人の説く浄土教の主張がどのような内容であったかについては、他の宗派の人びとに折にふれて知られるところであったと言えましょう。法然聖人が七十三歳の時、笠置の貞慶を中心に起草されたと伝えられる「興福寺奏状」の第一に「新宗を立つる失」があげられています。そこには、中古以来、新宗を興すことを聞かず、しかも「弥陀一仏の称名の専修」のみを説くことは排他的であると指摘しています。しかも朝廷の勅許を得ずに新宗を名のるのは過失であるとも述べています。
 しかし今、『選択集』二門章での浄土宗の名のりは、一宗を興し、朝廷の許可を得るような新教団の独立を宣言する意味ではなかったと言えます。あらゆる人びとに開かれた浄土宗の名のりは、一教団の独立を宣言したのではなく、あくまでも弥陀の本願にもとづいた称名専修を説くという、[P.32]
教法の独立を明示したのです。この点は、当時の仏教教団の人びとに充分理解されていなかったと言えましょう。また、法然聖人の吉水の草庵に多くの人びとが集まり、称名一行を専修して浄土に往生していく専修称名のみ教えを喜ばれましたが、それは、新教団を創立して、従来の諸教団に対抗していこうということでなく、法然聖人は、伝統の教団に対して、あらゆる人びとに開かれた仏教のあり方を問われたということでもあります。[P.33]

浅井成海『聖典セミナー 選択本願念仏集』本願寺出版社 より
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ひとり残らず、みんなおっしゃる。2023年4月16日 あさまいり [法話]

2023年4月16日の妙法寺(音更)のあさまいりです。
こないだ子どもが小学校に入学しまして、その関係で先生と話す機会があり、そのときの感想なども含めたご法話になっています。
なんまんだぶ。


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嘘は嘘。方便は方便。2023年4月1日 妙法寺(音更) あさまいり [法話]

ひさしぶりに、お寺の「あさまいり」でご法話をしました。



毎朝の「おあさじ」でお正信偈を繰り読みした後、毎月1日と16日には「あさまいり」としてご法話をさせていただいています。厳冬期はお休みしていました。4月1日から再開しました。

今回のテーマは「嘘は嘘。方便は方便。」です。
ご讃題(聖句)は親鸞作『浄土和讃』讃阿弥陀仏偈和讃より

自利利他円満して
 帰命方便巧荘厳
 こころもことばもたえたれば
 不可思議尊を帰命せよ

をいただいて、ちょうどエイプリルフールだったこともあり、嘘と方便の違いや、その他のもろもろについて話して、阿弥陀さまの救いの確かさを味わわせていただきました。

ありがとうございました。
なんまんだぶ。
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宗教的なパワハラの問題 [法話]

今日のこの動画のテーマはかなり難しいかも知れません。
でもすごく大事だと思う。

自分がとても大事にしている「何か」があるとして、その「何か」のために、自分をどれだけ犠牲にできるのかを問われる場面があるとする。そのときに、「いやそれは労働基準からいってどうなの?」と思うか「はい!なんでもします!それがわたしがソレをどれだけ好きなのかの証明ですから!」と思うか、という話。

わたしは坂本真綾とかちょびっツのちぃとか鈴木みのりとかが好きだけど(妻や子はどうなのとか聞かないでね。これらとは別水準だから。念のため)、それらが「あなたが大事にしているソレと、わたしと、どっちが大事なの?」と聞いて来たら(聞いてくるわけないから)、容赦なくその方のいう「わたし」の方を切るだろう。

そんな感じの、さみしさを感じる。

ほんとに、生きててくださってよかった。

この方向性の問題を解決していくためには誰かが声をあげるしかなかったのだと思う。なんまんだぶ。


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ちくしょう変なポエムばかりではないか [法話]

【追記】
ちょっと補足しました。下のほうです。

【追記】
描いてくださった方からの、つげ義春へのリスペクトというかオマージュというかパロディというかであることは、どちらさまもご理解くださっていますよね? 超・超常識ですよね? 

浄土真宗本願寺派の「あたらしい領解文」というのが出たので
シン・りょうげもん.jpg
https://t.co/s2sGemPzzI

以前、わたしのために、ある方が描いてくださったマンガをアップします。
326164175_652182506704855_1157195924098462779_n.jpg

わたしは『拝読 浄土真宗の み教え』の旧版、黒いのに載ってた「浄土真宗の救いのよろこび」が、内容も好きですし、語呂の良さも好きですし、唱和に適しているとつねづね思っています。と言いながら実際にはあんまり唱和してません。「唱和」というのはあんまり時代に即してないのかもしれません。でも歌手のライブでは「歌って!」と言われたらガンガン唱和しますね。わたしも『ポケットを空にして』は何度も唱和したものです。そしてきっとこれからも唱和することでしょう。この「救いのよろこび」も唱和する機会があればやっていこうかな。

「浄土真宗の救いのよろこび」

阿弥陀如来の本願は
 かならず救うまかせよと
 南無阿弥陀仏のみ名となり
 たえず私によびかけます

このよび声を聞きひらき
 如来の救いにまかすとき
 永遠に消えない灯火が
 私の心にともります

如来の大悲に生かされて
 御恩報謝のよろこびに
 南無阿弥陀仏を称えつつ
 真実の道を歩みます

この世の縁の尽きるとき
 如来の浄土に生まれては
 さとりの智慧をいただいて
 あらゆるいのちを救います

宗祖親鸞聖人が
 如来の真実を示された
 浄土真宗のみ教えを
 共によろこび広めます

浄土真宗本願寺派 750回大遠忌のときの説明にはこのようにあります。
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「浄土真宗の救いのよろこび」は、親鸞聖人が説かれた阿弥陀如来の本願のみ教えの要を、自らうけとめ、そのよろこびを述べていくものです。
そこには、短いながらも浄土真宗のみ教えの要である、阿弥陀如来の本願、南無阿弥陀仏の名号、信心、称名報恩、往生浄土、そして親鸞聖人のみ教えを広めていく伝道の心が織り込まれています。くりかえし自ら声に出して読むたびに、み教えに思いを傾け、味わいを深めることができるでしょう。
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『拝読 浄土真宗のみ教え』の活用(本願寺派公式サイト内)
https://www.hongwanji.or.jp/daionki/shinkou-soumon/shumon03/shumon_03_17.html
より

なお、「浄土真宗の救いのよろこび」の本文は
こちらのサイトからコピーアンドペーストさせていただきました。
廣國山 稱名寺 さま
http://www.smj.or.jp/posts/piece20.html
本当にありがとうございます。どうぞご覧になってください。熱い思いが感じられます。そして。……うーん。考えさせられます。「読書百遍意自ずから通ずる」とも言いますよね。もちろんそれだけではなく、話したり聞いたりしていかなければなりませんが、通じないからといって何もせずばっさりカットするのはなあ。

なんまんだぶ。

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